陽だまりの暖かさも、段々と当たり前の様に感じるようになってきた今日この頃。日も長くなり、帰り時、ふと立ち止まり、赤々とした夕日に見とれる人もいるのではないだろうか。今年も春が訪れ、そしてそれは桜の季節の到来を意味する。
日本人が愛して止まない「桜」
麗らかな外に飛び出して花見をする人もいれば、多忙のあまり今年もニュース映像で画面一杯に咲き乱れる桜を肴に一杯、とする人もいるであろう。
そんな人間のご事情には我関せず。今年も桜は今までがそうであったように、一斉に咲き乱れ、そして暫くすると、ひらりひらりと儚げに散っていく。今回はそんな我々日本人が愛して止まない「桜」についてお話ししたいと思う。
「無常」の一つの象徴でもある「桜」
「桜の下にて春死なん その如月の望月の頃」とは鎌倉時代の僧侶「西行」が詠んだ詩である。桜に心奪われ、散りゆく我が身の儚さを表しており、これは仏教でいう「無常」を詠んでいる。無常とは「この世に存在する全ての万物は移り変わっていく」という仏教的世界観を表す言葉である。桜は一斉に咲き誇り、そして短い一生を終えると、儚く散っていく。我々日本人は、咲いては散り、また次の春には咲くという生命の移り変わりを、即ち「無常」を桜の花に重ねているのである。我々日本人が古から桜を愛してきたのは、そんな仏教由来の「無常」を知らず知らずの内に見出していたからかもしれない。
「死者が埋められた桜は、成長が早く、鮮やかに咲く」
当コラムでも度々取り上げられる「樹木葬」。その樹木葬の一種として「桜葬」という葬儀形態があるのをご存知だろうか。
そもそも樹木葬とは、墓所に墓石を設けずに、土中に遺骨を埋葬し、特定の樹木を墓標とする自然志向型の葬儀形態である。桜葬とは、その墓標となるのが他でもない桜の木である。桜の下に埋まった故人の遺骨はやがて土へと還り、また毎春の花を咲かす。
桜葬に限らず樹木葬には、死して尚、生命に還るという人の願いを体現しているのである。そして、桜にはある逸話がある。それは「死者が埋められた桜は、成長が早く、鮮やかに咲く」というものである。こういった迷信から、桜は死者の魂が宿る神聖な木という側面も持ち合わせるようになったのであろう。桜の花に故人を重ねる、そんな柔らかなお墓参りは何となく、故人のことを近くに感じることができるのではないだろうか。