みなさんは最近「終活」という言葉をよく聞くようになったと感じませんか?私は、流通コーディネーターの故金子哲雄氏の明るい文体でつづられた生前に書かれた手紙を読んで以来この言葉を意識するようになりました。
あらゆるメディアに登場する「終活」
今では「終活」というキーワードでテレビ番組が放映されたり、遺言書の指南本が出版されたり、インターネット上でエンディングノートが無料でダウンロードできるようになったりしました。このように現実として「終活」という亡くなる前の新たな一ステップが形作られつつあります。今回はそんな迫りくる「終活」普及の波の中で一度立ち止まってみようと思います。
終活と生前整理の違いって?
ところでみなさんは「終活」と聞いてどんなイメージを浮かべますか。遺言書や生前撮影、葬儀の段取りなどを思い浮かべるでしょう。さてそこでもう一つ質問です。生前整理と「終活」はどこが違うのでしょうか。先程思い浮かべたいくつかのイメージは生前整理といってしまえば説明できるのではないでしょうか。この違いが説明できれば「終活」本来の価値を見つけることができると私は思います。
ネガティブな意味が含まれる「生前整理」
では、具体的な違いがどこにあるのかといえば、それは「誰かに迷惑がかからないよう」というマイナスな発想によるのか、「最後まで自分が生きていてできることをしよう」というプラスな発想によるかにあります。親戚がもめないように遺言を残そう、気をもむ必要がないように葬式で要るものを揃えて、金銭面でも決めておこう、こうした後に残す人々のことを考えながら行われるのが、少なくとも生前整理に付き纏うイメージではないでしょうか。
ポジティブな「終活」
一方「終活」はこんなに辛気臭くない、とここで主張するつもりは毛頭ありません。反対に、こうしたマイナスイメージな生前整理が行われなければ、自分の生を最後まで全うしようというプラスな「終活」の発想は生まれません。つまり、今までの自分を整理してこの先あとどれくらい自分にはできることが限らえているのか、自分の時間的・肉体的限界をはっきりされてくれる生前整理がなければ、自分の人生の「終」わりまでを最大限「活」かそうという考えは成り立ちません。この発想は元来「終活」という言葉を生み出した末期医療やホスピスの発想ともつながってきます。
根と果実の関係にある終活と生前整理
したがって、生前整理と「終活」の違いは単なる二律背反ではなく、根と果実の関係にあるといえます。そう考えると、昨今の「終活」ブームの中でも生前整理をおざなりにすることはできません。自己を見つめ直さない「終活」は単なる死を前にした自暴自棄でしかありません。ここまでの文章を読んでいただいて、流行に乗っかるだけを良しとせず、「終活」の根幹にはどんな気持ちの整理が必要か今一度考え直してみる良い機会と考えてもらえば幸いです。