新型コロナウイルスが猛威を奮い始めて2年以上が経った。増え続ける感染者数と毎日更新される重傷者、死亡者の数。自分が感染してしまうのではないか、高齢な家族が感染して重篤な状態になってしまうのではないかという恐怖に、多くの人々が疲弊していることだろう。このようなコロナ禍で、自分の死について、または家族の死について考えた人は多くいるのではないだろうか。そのような中、なぜコロナ禍で死の実感が薄れていると感じるのか述べていきたい。
数字としての死者数
新型コロナウイルスが流行し始めた初期の日本では、死亡者数が一人増えただけでその事実がとても大きく報道された。この時点では、多くの人々の死に対する実感は大きいものだっただろう。自分も感染してしまうのではないかと、恐怖を感じた人も多くいるのではないか。しかし、今はどうだろうか、死者数は増え、その一人一人をクローズアップして取り上げる記事やニュースはほとんどなくなった。テレビ画面の片隅に小さく表示されるだけの死者数。それに私たちは何を感じるだろうか。それぞれの死亡者のストーリーが見えない数字だけの死者は、わたしたちに具体的に死を感じさせてはくれない。身近な人が重篤な状態にある人や、亡くなった人々に近しい人を除けば、残酷なことにそれはただの数字でしかなく、その裏に存在する実際に亡くなっていった人々に思いを馳せる人はほとんどいないのではないだろうか。
薄くなる当事者意識
感染者の数はとどまることを知らない。自分も感染してしまったという人もいるだろう。しかし、若年層では気がつかないうちに感染して気がつかないうちに治ってしまった、中高年層でも、風邪のような症状で終わってしまったという人もいるだろう。多くの人が感染しても自分は大丈夫、自分は重症化しないと心のどこかで思っているのではないだろうか。そのような意識の中、どこか死と自分の存在が遠ざかっているのかもしれない。
生活に溶け込む感染症
今までは死に慣れてしまったことの負の側面について触れてきたが、これからの時代、ある程度の慣れが生活の中でプラスになることもあるだろう。新型コロナウイルスの感染がどのように収束するかという話題について、多くの人々がインフルエンザほどの感染数にまで落ち着くこと、と考えているだろう。しかし、死を過剰に恐れ続けたままでは、コロナウイルスがこの世から完全に消滅するまでその恐怖感は消えることはないだろう。ある程度死について頭の片隅に置いておきながらも、死という恐怖に慣れることで、また当たり前の生活に戻り、当たり前に外に出でマスクをせずに過ごすことができる世界が戻ってくるのではないだろうか。
折り合いが必要だった
このように、さまざまな要因でコロナ禍でより近くなった死への実感を、この2年以上の暮らしの中でどこか失ってしまったように感じる。死亡者が少ない時の方が、語られる壮絶な医療現場の状況はより生々しく、亡くなっていった人の無念はより私たちに近いものであった。そして、感染してもなお自分は大丈夫という意識が生まれる。これは一種の死という概念への慣れではないだろうか。しかし、死への慣れというのはある面からみれば悪い点のみを持つだけではない。二年半ほど前の当たり前の生活に戻り、感染症と共存してくためには、ある程度の慣れというものが必要になってくるのではないだろうか。これからの生活の中でも、移り変わる死の在り方について考えていく必要があるように思われる。