日本人ならタイトルくらいは誰でも聞いたことがあると思われる経典・般若心経。般若心経を語る書籍をすべて把握するのは困難である。これほど庶民に浸透した経典は無いが、その理由は深遠な仏教思想などではない。心経を読誦することの功徳、心経の持つ呪術性であった。
日本人に愛される般若心経
般若心経(摩訶般若波羅蜜多心経)は600巻に渡る大乗仏教経典「大般若波羅蜜多経」を262文字に凝縮したとされる経典である。短くリズムも良いので浄土真宗など一部の宗派を除いた各宗派で読誦されている。日本人にお経の名を挙げろと言われればまず般若心経の名が出ると言ってよい。心経の文字が刻まれたグッズなども多く販売している。「色即是空」「空即是色」の文言は意味はわからなくても聞いたことがない日本人は少ないのではないか。
知的思想としての般若心経
般若心経は私たちが当たり前に存在していると思いこんでいる物や「私」そのもの、すべてに実体は無く、始まりも無ければ終わりも無いと説く。いわゆる仏教の「空」思想のダイジェストといったところだが、初期仏教が説いた「四諦説」や「十二縁起説」なども最終的には否定してしまう大胆な説が説かれている。
一方で仏教の専門家の評価はさほど高くはない。仏教経典は必ず「釈迦から聞いた話だが」という意味の「如是我聞」の書き出しで始まるが心経にはそれが無い。内容が短すぎて文意も取りにくく、経典としては優れたものとは言えない。経の最後に呪が重要な位置づけで加えられていることも他の経典と異なっている。広く用いられたのは短いということと同時に呪のもつ呪術的効果によるものと思われる(末木文美士「仏典をよむ」)。
それにも関わらず、般若心経は庶民に親しまれてきた。そして現代人にも人気がある経典である。例えば般若心経と量子力学を関連付ける見解は珍しくなく、その妥当性はともかく現代人に迷信だと頭ごなしに片付けられない魅力があるのだろう。生命科学者の柳澤桂子は、物は原子、粒子の濃淡でしかないという解釈で般若心経を訳した。すべての存在は宇宙の他の粒子と一つづきであり、その意味で私たちに実体は無いが、宇宙と私たちはひとつでもある。つまり元々無いのだから、生・老・病・死も無い。恐れるものは何も無いのだと般若心経を科学的に言い換えた死生観が話題を呼んだ。
経典の呪術性
柳澤のような科学的解釈はいかにも現代的であり感動を覚える。現代人の支持を集めるのも納得である。だがそのような知識や教養が無かった時代から般若心経は庶民に愛されてきた。経典の最後を悟りを得るための呪文・真言(マントラ)で締めくくる般若心経は仏教経典としては確かに異質であるが、末木の言うように庶民が心経にすがったものはその呪術性だったことは間違いない。
私たちが知る漢訳版の般若心経は玄奘三蔵(602〜664)によるものだが、その玄奘も辛苦極まるインドへ旅の途中で、サンスクリット原典の般若心経を唱えて危機を逃れたと伝わっている。「観音経」、「延命十句観音経」など経典を読誦することの功徳は多く語られてきた。経典は単なる哲学書でなく霊験のある呪物でもあったのだ。弘法大師空海は般若心経を密教的に解釈し心経を、読誦すればあらゆる苦しみから逃れ、学び考えれば悟りを得、生きる力を得ると語っている。
心経は「これから般若波羅蜜多心経の『呪』(咒)を説く」と宣言した後にかの有名な呪文で終わる。
羯帝 羯帝 波羅羯帝(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい)
波羅僧羯帝 菩提僧莎訶(はらそうぎゃてい ぼじそわか)
この呪文は「行くものよ 行くものよ 彼岸に行くものよ さとりよ 幸いあれ」と訳すこともできるが、本来は翻訳はしないものとされ、玄奘も訳していない。この呪文は「空」の悟りを得る力をそのまま表現したものと思われる。空海も「真言は不思議なり 観誦すれば無明を除く」と真言(呪文)の神秘を説いている。意味は問わず「呪」の響きを味わい、その功徳を得るものなのである。
それは仏教なのか
しかしこの呪文なるものは仏教といえるのか。釈迦が禁じた魔術そのものではないのか。般若心経の最後を飾る「呪文」は、特に大乗仏教に批判的な人には最も許されないものらしい。テーラワーダ仏教の指導者アルボムッレ・スマナサーラ長老は、自ら初期仏教の「原理主義」と名乗る立場から、心経の呪文を仏教にあるまじき神秘主義だと痛烈に批判している。長老は呪術や占いに頼る人を「怠け思考の人」「努力しないで最高の結果を欲しがる人」であり「宗教たるもの、人間の呪文願望を支えてはならない」と手厳しい。
科学的な解釈や初期仏教を称するテーラワーダ仏教からの批判など、現代において呪術としての般若心経は迷信に過ぎないのかというと、そういうこともない。心経の功徳を説く宗教、術師らは変わらず存在している。ある霊能者は般若心経100万遍の誓願を立て達成したことで様々な不可思議が現前したという。また般若心経を唱えることで願望を実現するなどとする本も多数出版されている。それらは仏教なのか。オカルトだろうと言われると、長老が指摘するように無視できない問題かもしれない。しかし神仏習合という形で仏教を飲み込み、真言密教や専修念仏を生んだ日本仏教の土壌で般若心経の功徳も育まれてきたのである。
すがる想い
本当の苦しみは理想や理屈では超えられない。救われたいという切なる想いは正論で片付くものでもない。法然が念仏を唱えれば救われる専修念仏を説いた時、既存仏教は一斉に反発した。彼らから見れば修行も勉学もしない専修念仏などは、インスタントな幸福を得られるだけの原始的な呪術に見えただろう。しかし山奥や伽藍の奥からはひたすら念仏を唱える庶民の顔は見えない。庶民が般若心経にすがったのは「無」でも「空」でもない。唱えることの功徳である。そこには知的階級の僧侶には見えない、庶民の涙が込められている。般若心経はその呪文ゆえに哲学として仏教を超え、生老病死を克服する力を与えてくれるのである。
参考資料
■柳澤桂子「生きて死ぬ智慧」小学館(2004)
■末木文美士「仏典をよむ 死からはじまる仏教史」新潮文庫(2014)
■アルボムッレ・スマナサーラ「般若心経は間違い?」宝島社(2017)
■玄侑宗久「現代語訳 般若心経」ちくま新書(2006)
■ブックスエソテリカ第27号「お経の本」学研(2001)
■小原弘万「般若心経読誦と不思議」朱鷺書房(1988)