コロナ禍における東京オリンピックの開催をめぐる賛否論争は収束をみせる気配がない。だがあえてこのお祭り騒ぎをポジティブに解釈し、開催したからには意味あるものとして捉えようとするなら、まさに「祭り」としての要素が見えてくる。
東京オリンピックはコロナ禍における祭りである
この稿の執筆時において東京オリンピックが後半に差し掛かろうとしている。オリンピック史上最大といえる混乱を押し切って開催した今大会だが、開催してしまえば開催反対の声などなかったかのような連日の盛り上がりである。これは日本勢の予想以上の活躍も大いに後押ししているだろう。無観客開催における会場は静寂が支配していても、世間の熱気熱狂はおのずと伝わるものであるようだ。やはり自国開催のテンションは選手達にただならぬ影響を与えると思われる。一方でコロナの感染者数は一向に減少しない。オリンピックの熱狂の影で多くの人が苦しんでいるのも事実である。大会反対の声も鳴り止まることはない。それでも日本人選手の活躍は無視できない。やはりスポーツには人間の原始的な本能をくすぐるものがあるのではないかと思えてしまう。そのように考えると、東京オリンピックはコロナ禍における「祭り」であるといえる。
祭りは祈りのかたち
祭りはただの宴会ではない。「祭り」とは「祀り」であり、神を祀り五穀豊穣や疫病退散を祈願する祭祀儀礼である。村の中心には産土神(土地の神)が鎮座する鎮守の森があった。村の民は祭りの日には森や社に集まり、神に豊作物をお供えし祈りを捧げ、歌い踊り、神を祀る神輿を担いで、非日常的な「ハレ」の日を祝った。地震や洪水、日照り、そして疫病。人知の及ばない自然の脅威は神の怒りの現れであった。神は恵みをもたらすと同時に怒れる存在である。そのような時も人々は神を「祀る」、「祭り」をした。
ワンピース ワノ国で行われている年に一度の火祭り
週刊少年ジャンプ連載中の漫画「ワンピース」では、現在の舞台「ワの国」で年に一度の「火祭り」が行われている。国民は絶対的権力者「カイドウ」と「オロチ」に虐げられ辛い日々を送っている。主人公・ルフィたちがカイドウと決戦中であることなど知らない民は、また明日から変わらない日々を生きていくことに諦めつつ承知しながら祭りに我を忘れようとしていた。「火祭り」は彼らの生きがいである。火祭り会場の中心には、かつての英雄を模した神が祀られている。彼らは祭りの日だけは、その英雄の一族がカイドウらを倒してくれる夢を見るのであった。祭りは自力の限界を突きつけられた人間の「祈り」そのものなのである。
祭りの「力」
祭りには「力」が満ちている。普段慎ましく生きている人々の鬱憤が解放され不安が浄化され、時にエクスタシーにまで到達し、熱気熱狂が伝わる。そしてまた明日からの日常を生きるエネルギーを蓄える。「火祭り」は実際に世界中で行われているスタンダードな祭りの形態である。火には浄化の力があり、天に上昇する力の表現であり、エクスタシーの象徴でもあった。東京オリンピックの熱狂もコロナ禍における祭りの様相を呈している。選手たちの活躍に拳を突き上げた瞬間、確かに日頃の不満や鬱憤が浄化される感覚があるだろう。燃える聖火も火祭りを連想させなくはない。
東京オリンピックへの反対意見も理解できるが
反対の声もいちいちもっともである。感染の拡大にどれほどの影響があるのか、それだけの財政をコロナ対策に回せばとの声もある。反対を標榜していたマスコミや一部の野党政治家の「手のひら返し」にも呆れるところはある。しかしSNSなどを見るにつけ、彼らのような損得勘定に関係ない一般人の「手のひら返し」も多いようだ。やはりコロナに疲弊している日々にあって、祭りの「力」に惹かれているからではないか。
オリンピックを祭りと考えれば精神的な意味はあると思われる。日本人だけではない、母国選手の活躍は世界の少なくない数の人々に感動と希望を与えていることは事実である。大国は自国に誇りを持ち、小国は英雄の誕生、活躍に希望を見出す。「たかが運動会」と揶揄する声も散見されるが、運動会は「たかが」であろうか?運動会は家族の大イベントである。我が子が1着を取って喜ぶ姿、運動が得意でないのに最後まで頑張った姿は一生の宝だろう。まさに「ハレ」の日である。
こんなときだからこそ祭りが必要という考え方
桑田佳祐が東日本大震災を受けてリリースした「明日へのマーチ」は鎮魂と再生を歌った曲である。また、アミューズ事務所所属のアーティストが総出で唄った復興応援チャリティソング「Let''''''''s try again」のソロバージョンも収録されている。鎮魂と再生、復興と応援。これだけで十分完成しているはずだが、桑田はさらにもう一曲を追加した。それが「ハダカ DE 音頭 ~祭りだ!!Naked~」である。前2曲とは全く違う音頭調のコミックソングで、歌詞も相当にふざけた内容だ。辛気臭いことは言わず、とにかく踊れや騒げと言わんばかりの下品で陽気なフレーズに満ちている。聴く人によっては不謹慎極まりない。しかし桑田は未曾有の災害に打ちひしがれる人々には祭りが必要なのだと訴えたのではないだろうか。皆で笑い、歌い、踊る「お祭り気分」は鎮魂や応援に劣らず大切なものである。とにかく気分を明るくして元気にならなければどうしようもないではないか。「生涯、愛とスケベを歌い続ける」と明言した桑田ならではの楽曲構成だったといえる。
人は祀り、祭る
雨乞いをしたからといって必ず雨が降るわけではないし、祈りを捧げたとて疫病が退散することもない。それでも人は祀り、祭る。去年は疫病退散を願って疫病封じの妖怪「アマビエ」の存在が世に知られ、SNSなどを通じてその絵が拡散された。そこに合理的、実質的な意味を見出すだけ無駄だろう。この「祭り」が終わりコロナの日常が戻ったあとに何が残るだろうか。感染者数の推移もどのようになるかはわからない。だが興奮と熱狂の記憶だけは確実に残る。少なくともその瞬間、元気で前向きになれたことは確かである。