和歌山県に位置する高野山金剛峰寺は平安時代前期、弘法大師空海が開いたとされる真言密教の修行の地である。金剛峯寺をさらに行ったところに奥の院と呼ばれる場所がある。高野山では空海は亡くなったのではなく、長い瞑想へと入り、現在も修行に励んでいると考えている。そして空海のいる高野山こそ浄土であると捉えるようになったのである。これを大師信仰という。弘法大師廟というお堂が空海の瞑想の修行の場であり、聖なる場所として今もなお篤い信仰を集めている。
明智光秀、織田信長、武田信玄、上杉謙信などが眠る高野山
その弘法大師廟にたどり着くまで約2キロの参道が続いている。その参道には多数のお墓が道沿いに並んでいる。それらの墓石を見てみると戦国武将の供養塔が多数存在することに気付く。今話題の明智光秀、織田信長、武田信玄、上杉謙信など名だたる武将がそろい踏みしているのだ。
なぜ高野山にこんなに多くの戦国大名のお墓が存在しているのだろう。これは高野山と戦国大名の複雑な関係から生まれたのである。大師信仰が広がることで自らも亡くなった後、空海の近い場所にいたいという思いから高野山に納骨を希望する信者が現われた。鎌倉時代には既に納骨の習慣があったといわれている。
戦国時代、大名と寺院は荘園を理由に対立していた
戦国時代になると戦国大名と寺院が対立する。原因は荘園の存在である。多くの寺院は荘園を持っていた。寺院は荘園にかかる税を免除されるメリットがあったため、荘園内で得た作物の利益も全て寺院のものとなったのである。これは寺院にとって大切な収入源であり、経済的安定の基盤となっていた。しかし戦国時代になると戦国大名による荘園の侵略が横行した。有名な信長による比叡山焼き討ちも荘園がきっかけで起こった出来事である。
自衛を図った高野山
高野山も広大な荘園を持っており、大名による侵略を危惧していた。当時高野山もまた織田信長ににらまれており、比叡山の二の舞になりかねなかった。こうした情勢から身を守るために有力な大名と手を結び、宿坊の契約、師檀制度(檀家制度のようなもの)を提案したのである。乱世の中、戦国大名たちは寺院と対立していた一方、大師信仰のもと高野山に墓石を立てるなど信心の深さが垣間見られることは興味深い。
全国大名の約40%のお墓が高野山に集中している
実際に墓石や供養塔が作られ始めたのは戦国時代であることが現存している墓石の調査によってわかっている。そして徳川家康が世を治める時代になると高野山を徳川家の菩提所と定めた。すると各地の大名がこぞって高野山に墓を建て始めたのである。その結果、現在110家の大名家の墓が存在し、この数は全国大名の約40%の割合を占めている。
高野山は次第に一般庶民にも浸透していった
こうした流れを受けて高野山は一般庶民にとっても憧れの地となった。高野山は時代の流れと共に門戸を広げていった。現在歴史上の人物と共に、著名人や一般人のお墓が同じ地に立っている。中には企業が建てた企業墓と呼ばれるものもある。仏教史とはまた異なった高野山の歴史を垣間見ることができる。訪れた際は是非お墓にも注目していただきたい。