昨今の葬儀不要論において最も槍玉にあげられるのが戒名だろう。意味のわからない名前を半強制的に与えられ、法外な金額を取られる戦犯のような扱いである。戒名が必要か不要かは各々の価値観に任せるとしても、戒名について考えることは「名をつける」という事がどういうことか、言葉とは何かを考える機会でもあると思われる。
戒名とは何か
戒名とは元々は出家した僧侶につけられるもので、仏に帰依した者=仏弟子につけられる名前である。キリスト教でも神に帰依した証である洗礼名がある。これが転じて故人につけられるようになったのは、死後は浄土に行き、そこにおわす仏の元で悟りを開くための弟子になることを示している。浄土真宗では「法名」日蓮宗では「法号」という。
戒名のランクとそれに対する批判
戒名にはランクがあり、「~信士・信女」の上に「~居士・大姉」があり、戒名を頂く際の戒名料もそれに応じて価格が上がる。昨今ではこうしたランク、料金に対する批判が高まっている。確かに生きとし生ける者全てを救い取るはずの仏に帰依しようという者が、金でランクを買うというのは矛盾だ。俗世に絡み取られているように思えるし、商売と言われても否定できない。
一方で、こうした批判の根底には戒名などという、「名前」に対する等価価値を認められない意識もあるのではないか。これが墓のように形あるものなら多少の無理が効くかもしれないが、たかが名前、たかが言葉に・・・・という思いもあるだろう。このような意識は、言葉というものが軽んじられている現代を表している。
名前・言葉の呪術性
「名付ける」という行為は単にモノや現象に「コップ」「パソコン」「水」などのラベルを貼るだけのものではない。ヨハネ福音書の有名な冒頭に「始めに言葉ありき 言葉は神なりき」とある。神とは言葉であるという。我々も含め、世界は言葉によって生み出されているのだ。
夢枕獏の小説「陰陽師」で、陰陽師・安倍晴明が源博雅に「この世で一番短い呪とは、名だ」と語る一節がある。
「おまえの晴明とか、おれの博雅とかの名か」
「そうだ。山とか、海とか、樹とか、草とか、虫とか、そういう名も呪のひとつだな」
「わからぬ」
「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」
「眼に見えぬものがある。その眼に見えぬものさえ、名という呪で縛ることができる」
「ほう」
「男が女を愛しいと想う。女が男を愛しいと想う。その気持ちに名をつけて呪れば、恋-」(「陰陽師」より)
名前・言葉の変容性
TBSテレビのドラマ「義母と娘のブルース」(2018年)で、義母(綾瀬はるか)が、娘を育てたのは自分のため、エゴイズムだったと「告白」し、娘に謝罪する場面がある。これに対し娘(上白石萌歌)は、それは違うと諭す。
「私が笑ったら自分が笑った気になるってさ、私が傷つけられたら自分のことみたいに怒るってさ、自分が欲しかったもの全部あげたいってさ、そういうの、そういうのね、世間では「愛」っていうんだよ」(「義母と娘のブルース」より)
義母は単なる自己愛=エゴイズムだと思っていたそれが、実は純然たる「愛」なのだと気づかされる。安倍晴明の理屈で言うなら、義母が「エゴイズム」という呪で自ら縛っていた感情を、娘が「愛」という呪で変容したのである。
名前は世界にも大きな影響を与える。「援助交際」という表現は、それ以前の「売春」の持つ、暗く重い響きを軽いものにしてしまった。「援助交際」「エンコー」「パパ活」などという軽薄な言葉が、自らの身体を売るハードルを低くしたと筆者は考えている。こうした表現にはジャーナリストや記者など言葉のプロが流布したものも多い。言葉のプロが言葉の持つ呪術性を理解しておらず「たかが言葉」だと思い込んでいるように思えてならない。
名が変わるということ
名づける行為で最も身近にして重要なものが、個人の名前である。人は生まれた時は何者でもない。名前をつけられ、一生その名前で呼ばれることを踏まえれば名前とはもうひとつの自分自身である。
歌舞伎や落語などの伝統芸能、工芸の世界では代々襲名される名前がある。中でも歴史的な実績のある名前は「名跡」と呼ばれる。名跡を襲名した当代はただ文字・音声としての名前を継ぐだけではない。その名前には代々の歴史があり、その重みを生涯背負うことになるのだ。戒名もまた浄土に旅立った故人が仏弟子として新しいステージに立つ新しい名前であると言える。
恐山に響く名前
重要なことは名とは基本的に他者によって呼ばれるものだということだ。「私」が他者に向かう言葉でないように、名前は自分自身に向ける言葉ではない(自身を名で呼ぶ人もいるが、その場合の名は形こそ同じでも「私」と同義である)。
他者が呼び、他者に呼ばれ、歴史を紡いでいくことで、名前にはその人らしさが具わる。名は体を現すとはそういうことである。その人と共に名もまた成長していく。そして名を呼ぶ他者の心にも、その人の名が刻まれていく。
そのような名とは、ただの音声ではない。その人そのものであり、名前を呼ぶ人にとってもその人そのものだ。恐山で亡き家族を偲んで何度も何度も名前を叫ぶ人たちがいる。例えば「タロウ」であるなら、同じ名前の人はたくさんいるだろう。しかし、家族が叫ぶ「タロウ」は、それらのどのタロウでもない、唯一無二の他人にはわからない「あのタロウ」である。「タロウ」と口にした時、あふれる想いを想像してみれば、「たかが名前」か「言葉は神なりき」かの答えは問うまでもない。
そのものの本質を知った上で是非を問うべき
名前がそのようなものであるならば、戒名を故人につける行為は、故人への想いに捉われ執着してはならないとする仏教の教えを実践したものに他ならない。名前を変えることはそれまでのその人でなくなり、新たに生まれ変わることだ。新しい名前をつけることで、死後も仏弟子として浄土で生きている故人も、この世に残された人たちも共に新しいステージを迎えることができるのだ。
ランクや高額な料金などについて、戒名を批判する気持ちは十分理解できる。しかしほとんどの人が戒名の意味、名前をつけるということの本質を知らないように思われる。意味を知らなければ生きた言葉にはなり得ず、位牌のラベルに過ぎなくなる。まず学び、考えること。要・不用を問うのはそれからでもよい。