月忌とは?
月忌とは月命日のことで、毎月の亡くなった人の命日のことをいいます。例えば、亡くなった日が4月10日だとすると、翌月の5月10日、そしてその翌月の6月10日が月忌ということになります。
また亡くなってからはじめての月忌のことは初月忌といいます。月忌に法要を行う(月忌法要)際に、地域などによっては、毎回僧侶に読経を頼んだりする場合もあります。それを月参りなどと呼びます。
初月忌の法要から追善法要といって七日ごとに法要は行われ、それは四十九日まで続けられます。そして四十九日目の法要をもって忌明けとなり、忌明けが過ぎてからの月忌法要は、都度必要に応じて行われるようになります。
ちなみに亡くなった人の没年月日のことは、祥月命日と言い、はじめての祥月命日は一周忌となります。そして3年目、7年目、13年目と節目の年に法要は行われますが、これを年忌法要といいます。
年忌法要を切り上げるのは、31年目、33年目もしくは50年目にされ、これをもって弔い上げとなります。
月忌の豆知識:現在でも月命日に法要が行われている光明皇后
命日と言えば、最近は祥月命日のことだと認識している人が多いようですが、そもそも命日なのですから、亡くなった日のことを指しますので、厳密に言うと月命日ということになります。
祥月命日というのは、没年月日のことを指すわけですから、命日ではありませんね。つまり命日は毎月ありますので、年に12回やってきます。
仏教に篤く帰依したとされている光明皇后は、現在でも月命日ごとに法要が行われています。
光明皇后は奈良時代の大宝元年(701年)に藤原不比等と県犬養橘三千代の間に生まれ、聖武天皇と結婚。仏教を熱心な信者であったと伝えられており、東大寺や国分寺の建立についての進言をしたとのこと。その他の慈善活動なども進んで行っていたことでも知られています。
光明皇后は伝説が多く、らい病(ハンセン病)患者の体中が膿で腫れあがった患部を、みずからの唇で全て吸出したところ、その患者の体はみるみる黄金色に輝いたかと思ったら、阿閃如来であったという話しはよく知られています。
また能書家としても聖武天皇と並んで有名で、その作品には王羲之の「楽毅論」を臨書したとされる書や「杜家立成雑書要略」があります。その筆力は雄健とされています。これらはどちらも正倉院に蔵されています。
光明皇后が60歳の生涯を閉じたのは、天平宝字4年(760年)6月7日でした。東大寺の大仏殿では2010年に1250年の遠忌法要が盛大におこなわれました。