野辺送りとは?
遺骸を火葬場や埋葬地まで見送ることを言います。またはその葬送の行列や、葬式自体のこともそう呼ぶこともあります。弔い。
もともとは、これも葬儀での儀式の大切な一部であったので、しきたりや作法には独特なものがありました。現在はこの風習を引き続き行っているところは、数少ない地域でわずかに点在するくらいとなっています。その作法は地域によってさまざまです。
今では都会部でこの光景を見ることは、ほとんどありません。葬儀場で葬儀は行われますし、遺骸は火葬場まで霊柩車で運ばれるのが一般的です。
しかしこの野辺送りは、葬儀のなかでも、実は最も重要な儀礼とされていました。葬送の列の形式を例にあげてみましょう。
まず棺を真ん中して遺族たちが、位牌、天蓋、供え膳、水などを持ち列となります。先頭の人は松明(たいまつ)を掲げて進みます。これらの行動にはそれぞれ厳粛な意味が伴っています。たとえば松明を持つ理由は、魔払いやお浄めの意味が込められています。同じ意味合いで、棺に鎌などの刃物を装備させることがありますし、途中の道すがらで出会う人々に米や銭をまくこともあります。
天蓋を掲げるのは、穢れたものとする遺骸を太陽から遮るためとされています。また神聖な場所である神社などは避けて通ります。そのほかには、わざと回り道をしたり、何度も同じ道を行き来したりして、霊魂が道に迷って現世に戻ってこれないように、複雑に進んでいきます。
野辺送りの豆知識:野辺送りの歌
日本人は和歌を愛してきました。古来より和歌とともに生きてきたと言っても過言ではないでしょう。和歌で恋する気持ちや、悲しい気持ちなどを伝えることが日常だったのです。万葉集には、追悼(挽歌)をうたったものが数多く残されています。この挽歌は野辺送りの際に棺を乗せた車を引きながらうたう歌とされていました。
もともと挽歌とは、葬儀の際に呪術的な意味合いを持たせるものとして考えられていました。ですから死者の魂を呼び戻すためであったり、慰めるために詠んでいたのではないかとのことです。そして挽歌は平安時代以降に哀傷歌と呼ばれるようになりました。哀傷歌は古今和歌集に数多く残されています。
【万葉集】大伴家持(妾没)
今よりは秋風へさむく吹きなむを いかにかひとり長き夜を寝る
(今よりいよいよ秋風は冷たく吹くようになるだろう。そんな長い夜にどうしてひとりで寝ることができるだろうか)
【古今和歌集】紀貫之(紀則友没)
あすしらぬ我が身とおもえど 暮れぬまのけふは人こそ悲しかりけれ
(明日は我が身かもしれないけれど、まだ今日の日が暮れるまでの今、いなくなってしまった人の死を思い、ただ悲しむばかりなのです)