尊厳死を考える「グループ夕映え」主催の夏池弥栄子は、今日よりも多少、少子高齢化による、国民皆保険制度存続の危機、そして老老介護などが社会問題化していなかったおよそ20年前に、認知症の妻と心中した夫の遺書を紹介している。
人は晩年になると「どう死ぬか」を考えずにはいられなくなる
「幸福の最中に死んでいくことは、大変ありがたく幸せなことです。私たち2
人はいま、とても幸福なのです。心ない人はいろいろなことをいうでしょう。
しかし、恐れてはなりません。みんなは、私たち夫婦の幸福を心から願って
くれているから、必ずわかってくれるでしょう。」
この遺書を書いた夫は、介護殺人・介護心中などの大きな要因とされている、娘・息子などとの断絶。地域からの孤立。貯えが底をついてしまった、年金だけでは生活や治療ができないなどの貧困問題があったわけではなかった。妻を病院に入れるのに、時間がかかる。そのため、しばらくは2人暮らしをしていかねばならないことに対し、不安と失望があった。しかし身内の人たちは「ためらいもなくいっしょに暮らそうと言ってくれました」という。それゆえ、「老人病院に置き去りにされたり、子供達の間をたらい回しにされたり、‘親孝行 したくないのに 親がおり’の時代に、私たち夫婦は、みんなにたいせつにされる」、この「最高の幸福」の中、夫は、妻と結婚した当時、「死ぬときはいっしょに死のうと誓い合っていた」ことを思い出した。それゆえ、自分は妻を連れて死ぬことを決めたというのである。
また、骨格筋を収縮させる脊髄の神経細胞が侵され、変性していくことで、身体のすべての運動機能が短期間で廃用状態に陥る。更に自力呼吸不能に陥り、人工呼吸器を装着しなければならないにもかかわらず、意識・知能などの高次機能や視力(視覚)、聴力(聴覚)、温痛覚、触覚などの感覚器機能は最後まで侵されない、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という、今現在、根本的原因・予防法・治療法がわからない難病がある。このような重篤な病に倒れた妻を介護する、ある夫は手記の中で、「こんな病気になっても、妻の有り難さがよくわかりました。これからは妻の手足となり、口となれたらと思います。妻が泣いていると、自分も泣きたくなります。笑ってくれるように、生きる情熱を持ち続けてくれるように、私が頑張らねばと思います」と書いている。
これらの例は、病に罹った人を支える「周りの人」の考えであり、行動だ。人の一生の中で、周囲の環境、そして自分の日頃の努力や心がけだけではどうにもならないことの最大のものと言えば、「自分がどう死ぬか」である。周りに経済的、精神的に迷惑をかけない。長々と病の床で苦しみ続けることなく、「ポックリ」死にたい。とはいえ、誰にも看取られず、死後も気づかれることのない孤独死ではなく、愛する家族や友人たちに見守られながら、逝きたい…など、その希望は果てしない。若いうちは、自分の目標実現や、日々の生活の忙しさのために、「自分がどう死ぬか」を考える余裕がほとんどない。しかし、子どもたちの独立、親の看取り、自身が大病をする、定年退職、同世代の友人知人の死…など、人生の「下り坂」に差し掛かったとき、人はどうしても、「自分がどう死ぬか」を考えずにはいられなくなる。
芥川賞作家 大庭みな子の短編小説 『山姥の微笑』
「魂が飛んで行った後の彼女の裸体は、アルコールで拭き清めると、つやや
かで若々しく、蠟でつくった女神の像のようであった…(中略)…そのおだ
やかに閉じた瞼と、いくらかほころばせた口元のあたりには、不思議な、あ
どけなさと、泣き出しそうなのをこらえて笑っている少女のようなはにかみ
があった。」
大庭みな子(1930〜2007)の短編小説『山姥の微笑』(1976)の主人公である、「正真正銘の山姥」の最期である。62歳だった。山の奥深くではなく、現代社会の片隅で生きた「女」は、脳血栓で倒れた5日目の朝に、「かっと眼を見開き、丁度その真向かいで自分のからだを支えている娘の顔をまっすぐにじっと見つめ、甦った光のあふれる眼で微かに笑った」。そして、「咽喉にたまった唾液を気管に流しこみ、われとわが身を窒息させる」やり方で、自ら死んだ。
本作は、日本で言い伝えられ、信じられてきた「山姥(やまうば/やまんば)」の紹介から始まる。大庭の「山姥」は、「山の棲家を想いながら、ついぞ一度もそこに棲むこともなく、仮の里住まいで人間の女としての一生を終えた」。しかしそもそも「山姥」とは、深山に住むとされる、想像上の女の怪物、鬼女のことである。もともとは山神または山神そのものに仕える女だったが、我々の中には、人を喰う残忍な鬼女・老婆のイメージの方が根強い。
山姥とはなにか
民俗学者の柳田國男は山姥について、以下のように述べていた。
(1)山の奥には、昔も今も、そのような者がいるのではないか。
(2)山の神の信仰には、狼への恐れがあった。その例として、狼の首領が老女の姿を借りて、人間に往来したという言い伝えがある。
(3)何らかの情緒不安定、または山の神に娶られると信じ、自ら山に入って行った女がいた。
同じく折口信夫も、里に住む人が、山の中に住む人を山姥・山男と妖怪化して取り扱うようになっているが、「所によっては、事実出たのであろう」と指摘していた。
そして仏教民俗学者の五来重は、当時の庶民感情に基づいて「語られた」、日本の昔話の「話型」に着目した。例えば、「鬼一口(おにひとくち)」と呼ばれる、鬼、または物の怪、怨霊、山の神、祖霊などが人間を襲い、一口で食べてしまう昔話がある。「山姥」の昔話の中にも、そのパターンを踏襲しているものがあり、「牛方(うしかた)山姥」がそれに充当する。地域によって詳細は異なるが、魚の行商人の牛方または馬方(うまかた)の男が、山で山姥に出会う。最初は1匹の魚だったはずが、腹を空かせた山姥は全部食い尽くしてしまう。挙句、男自身も食わせろと言い、取って食おうとする。男は機転を聞かせて山姥から逃れ、最終的に山姥を釜茹でにしてしまうというものだ。
また同様に、「食わず女房」という話型もある。これは「鬼一口」型のように、「山姥」は最初から、貪欲な老女として登場するわけではない。最初は若く美しい女として、一人暮らしの男の元に、「自分はまんまを食わないから、嫁にしてくれろ」と言って訪ねてくる。日頃吝嗇で、「飯を食わない嬶(かか)が欲しい」と思っていた男は、喜んで嫁にする。しかし何故か、毎日の米の減りが早い。不審に思った男は留守を装い、隠れて嫁を見張っていた。すると嫁は、大量の米を炊き、握り飯をたくさんこしらえた。そして髪の毛を手で振り分けると、頭のてっぺんに大きな口があった。嫁は握り飯を頭の口に放り込んで、全て食べつくしてしまった。それに恐れをなした男は、嫁を離縁することにする。嫁は快く了承するも、男が入浴している隙を見て、風呂桶ごと担いで、山へと走り出した。男は機転を利かせ、山道の両側から垂れた木の枝に飛びついて、逃げ出すことに成功した。それに気づいた山姥は男を追いかけるも、男は道の傍らの菖蒲と蓬が密集した草むらに飛び込んだ。山姥は菖蒲と蓬に触れると体が溶けてしまうということで、男の追跡を諦めるというものだ。
前者の「鬼一口」に関して五来は、「山の神であり、峠の神であって、芝や花や散飯(さば。鬼神のために、食前に少量の飯を取り分け、手向けること)の『手向け』を求める霊」だったものが、昔話の中で表象化され、人間化されて、多くは残忍な老婆として語られた。そして後者の「食わず女房」は、「鬼一口」同様、古代〜中世にかけては、山・森・夜は危険に満ちていた。人さらいによるのか、または自分から姿を消し、行方不明になる者が多かった。その原因として、山の中の鬼や山姥の仕業だと信じられてきた。それに加えて、「風呂桶」を担ぐ山姥だが、地域によっては、「棺桶」とも言い伝えられている。そのことから、山へ死者を送る「山送り」の葬送儀礼が背景となっている。しかも山には、風葬・林葬・土葬の墓地があり、そこから霊鬼としての鬼婆や山姥が出てきて、人を食うという「鬼一口」型の物語ができたのではないかと分析している。
また、「山姥」は能の中にも登場する。都の遊女・百魔山姥が従者と共に、信州・善光寺参りのため、越中と越後の境川に着いたとき、不思議な女が現れた。女は自らを「本物の山姥」と言い、百魔山姥が得意とする「山姥の山めぐり」というクセ舞を舞って、自分の妄執を晴らして欲しいと頼む。百魔山姥が恐れおののきつつも、舞を舞おうとすると、女は消え失せた。夜になったとき、先ほどの女が、鬼女の姿で現れた。鬼女は本物の「山姥の山巡り」を舞って見せ、姿を消したというものだ。
『山姥の微笑』のあらすじ
比較文学研究者の水田宗子は、「山姥は、民話や説話の中にだけ生きる過去の存在というよりは、語り手や書き手によって、語り直され、書き直される新しい像である…(略)…時代と文学の想像力によって新しい人物像へと形象され、テキストに書き込まれ、書き直されていくことを通して現代までの物語の中に生き残り、女性の新たな生き方の哲学を担って蘇ってくる原型的存在」と述べている。大庭が描いた「山姥」は、1970年代半ばの日本における「娘」「女」「妻」「母」などの「女」のイメージから生み出されたものでもあると言える。大庭が描いた「山姥」も、「語られてきた山姥」のありよう、すなわち、山姥が有する母性・貪欲さ・冷淡さ・人にとことん尽くす性質を踏襲したものである。
「女」は幼い頃から人の心を読むことができ、即座にそれを復唱していた。更には、人の思った通りに行動してさえ見せる。それゆえ、「女」同様、「山姥」であった母親からさえも、「この子は頭がいいけれど、全くひとを疲れさせちゃうわね」と、どこか突き放したような眼差しを向けられてしまう。いつしか「女」は、自分が「山姥」であることから備わってしまっている、常人にはできない、人の心を読み取る力が「ない」、「気づかない」ふりをする抑圧感と嘘、そして自身のありようが誰からも肯定されないものであることから来る疎外感、孤独さを味わいながら生きていくこととなる。それは成人後、結婚してからも、同様だった。「山姥」から見ると実に愚かしく見える「男のプライド」に付き合い続けた女は、心から疲れ果ててしまっていた。「女」のつかの間の気晴らしが、「里」ではなく、自分の性質を一切隠す必要がない「山」での、のびのびとした暮らしを想像することだった。そして中年になった「女」はひどい肥満のため、だんだん血管が圧迫され、動脈硬化を起こし始めた。体の方々がしびれ始め、頭痛がして耳鳴りがするようになってきた。医者にかかっても、「更年期障害」と言われるだけだった。こうした体調不良は20年間続いた。「女」の風貌は、「深い皺で覆われ、黄ばんだ歯が老いた猫のようにまばらに醜かった。髪には白く霜が降り」、まさに「山姥」そのものとなっていたのである。そんな中、突然、「女」は倒れた。今まで更年期障害であると診断を下していた医者は、「運が悪ければ今日か明日の運命ということも考えられる」と宣告したのである。
「女」が倒れて二晩は、夫と娘・息子がつきっきりで看病した。しかしそれから、息子は仕事を休むのは限界がある、今すぐどうこうということもないらしいからひとまず帰ることにすると言い出した。娘は、家に残した夫や子どもたちの心配を始めた。母親同様、脳血栓で倒れた患者が、意識不明のまま、2年間も点滴だけで生き延びた話を聞き、いったいこの状態がいつまで続くのであろう。父親にそれだけの医療費を賄うだけの用意があるのか。更には自分の留守中に幼い娘が病気になったりしたら…などと不安になってきた。父親はただ、おろおろと娘に「どうか、お前だけでも、もうしばらく様子を見てくれないか」と懇願するばかりだった。
「女」はそれから2日生き延び、3日目の朝になった。そこで冒頭に紹介したように、「女」は自ら死んだ。それは、「あなたはもう御用済みよ。あなたが誰の迷惑にもならず、自分だけで自分のことをやっていけるならともかく、私の世話にならなければならないなら、どうかすうっと消えて頂戴…(略)…あたしだって、いずれ、自分の娘に今あたしがあなたのそばで味わっているような苦しみを味わわせないために、どうにかあっさりと身の始末をつけることを、今から覚悟して、いろいろと心の準備をしているわよ…(略)…そういう覚悟をするのがいやなばっかりに、親切の押売りをする親には絶対なりたくないと思っているの」という娘の心を読んだからである。
「女」は死に、「山姥」の霊となって「里」から、本来のふるさとである「山」に帰った。自分の母親が「山姥」だったことを認識しているのか否か、娘は母親の骸にとりすがってむせびながら、泣き腫らした眼にえも言われぬ解放感を浮かべて、「きれいな死顔、お母さんは本当に幸せだったのね」とつぶやいた。自分が産み、育てた娘に満足して死んだ際の「女」の「予見」通り、「山姥」である娘は、「泪のあふれた魚のような眼を見開いたまま、声を立てずに慟哭した」夫とは異なり、「女」や「女」の母同様、「どんな誘惑にも負けず、節度のある生活をして、百歳で死ぬ瞬間まで頑健に生きるか、あるいは八十歳でも自殺するほどのエネルギイを持って、傲慢に、自己中心的に最後の最後まで生き延びるか」、いずれかの人生を全うするだろう。
大庭みな子の生涯
この作品を書いた大庭みな子は、「小説家だけ」の人生を歩んだわけではなかった。1953(昭和28)年に大学を卒業後、中学・高校の講師を経験した。その6年後に彼女の最大の理解者であった大庭利雄と結婚してからも、家庭を守る主婦として11年に及ぶ夫のアラスカ転勤に付き合う中、現地の学校で教鞭を取ったり、ウィスコンシン州立大学大学院に籍を置くなど、結婚して家庭に入り、あまり表立った振る舞いをしないことがまだまだ当たり前だった「当時の女性」の中では活発な生き方をしていたことが伺える。1968(昭和43)年、38歳の時に『三匹の蟹』で群像新人賞と芥川賞をダブル受賞し、2007(平成19)年に亡くなるまで、多くの作品を生み出した。
みな子は利雄からのプロポーズを受けた後、すぐに応じるのではなく、「私は正真正銘いけない、だらしのない人間に属するのです。その中あなたが私の正体を御覧になったら、こんな事ではなかったのに、と後悔なさるのではないかと、怖れています」(1954(昭和29)年7月29日)「やがて、何時か、私の真の姿がわかると、見るのも厭におなりになるのです。そして、私は苦しまなければならない。私はその時の苦しさを考えると、殆ど、自殺し度くなります(原文のまま)」(同・10月30日)と、手紙で利雄に書き送っている。
利雄に見せたくなかった、もし見られてしまうことで、利雄が去ってしまうことになりかねない「私の正体」や「私の真の姿」とは何なのだろうか。
結婚後、利雄はみな子の勘の鋭さについて、「貴方は今麻雀に行きたいと思っているでしょう」「今、鮭釣りのこと、考えているのね」など、異性関係以外のことでもみな子の直感力は感度が高過ぎて、連れ合いは疲れてしまうことが多かった。「まるで山姥と暮らしているみたいだ」と言うと、みな子もそれが気に入って、以後、「山姥」を自称し、作品の中にもしばしば「山姥」を登場させていた、と書き記している。男性よりも勘が鋭いことは、「女性なら誰にでもあること」、または「小説家ならでは」なのかもしれない。しかし、もしかしたら、利雄に見られたくない大庭の「正体」「真の姿」とは、『山姥の微笑』の「男」、すなわち、「女」の夫が求めた、「女というものは母親のように寛容で、女神のように威厳があり、阿呆のように際限もなく溺愛してくれ、なおかつ邪悪な動物のように悪に憑かれた魂をも兼ね備えているもの」とは全くかけ離れたものだったのかもしれない。ひょっとしたら柳田國男や折口信夫が言うように、「山姥」が妖怪変化ではなく、「実際にいた」としたなら、大庭自身もまた、『山姥の微笑』の「女」同様、「里」に棲む「山姥」、または普通の「女」でも、「山姥」に勝るとも劣らない、鋭敏な感性を持つ人物だったとも考えられる。
最後に…
現実の大庭は『山姥の微笑』の「女」同様、1996(平成8)年に脳疾患で突然、倒れてしまう。「女」はたった5日で自らの命を終わらせたが、大庭は9年と10ヶ月、生き延びた。左半身麻痺となったものの、利雄からの介護を受けながらリハビリと、口述筆記によって、作家活動を続けていた。
最終的に腎不全、多臓器不全で大庭は亡くなった。その死の間際、大庭が『山姥の微笑』の「女」のように、周囲の人々の心を読んだ上で、それに応えるための「死に方」で死んだのか。せめてあの「女」のように、「山姥」としての本性を終生抑圧したまま、自ら「死ぬ」ような死に方を、大庭にだけはしてもらいたくなかったというのが、筆者の考えである。
参考文献
■『新訂 妖怪談義』 角川学芸出版(155−161頁)
■『怪異の民俗学 5 天狗と山姥』河出書房新社 (295−304頁)
■『岩波 古語辞典 補訂版』1974/2014年 岩波書店
■『大庭みな子全集 第5巻 (山姥の微笑)』 日本経済新聞社(461−477頁)(585−592頁)
■『日本伝奇伝説大事典』 1986年 角川書店 (905頁)
■『死ぬ前にも地獄がある –長生きはご迷惑ですか』1995年 主婦の友社
■『尊厳死か生か –ALSと過酷な『生』に立ち向かう人びと』1999年 日本教文社
■『山姥たちの物語 –女性の原型と語りなおし』2002年 學藝出版 (7−37頁)
■「『私の正体を御覧になったら……』大庭みな子が綴った夫への激情」『婦人公論』 2009年6月7日号 中央公論新社 (58−62頁)
■『伝承怪異譚 –語りのなかの妖怪たち』2010年 三弥井書店
■『宇野千代・大庭みな子 (精選女性随筆集)』2012年 文藝春秋 (259−264頁)
■『新版 あらすじで読む名作能50選 (日本の古典芸能)』2015年 世界文化社
■『大庭みな子 響き合う言葉』2017年 めるくまーる