餓鬼とは何だろう。誰だろう。漢字ではなく、カタカナで表現される「ガキ」は、「ガキ大将」、ダウンタウンの人気番組、『ガキの使いやあらへんで!!』、またはちょっと乱暴な大人が子どもに対して言う、「ガキが生意気に!」などであれば、未熟、乱暴、無知、礼儀知らずの「子ども」、または「子ども」ゆえに、未熟、乱暴、無知、礼儀知らずであることを指す言葉として、我々も無頓着にその言葉を目にし、耳にし、時に口にすることもあるはずだ。しかし本来の漢字で書かれる「餓鬼」とは、何、誰のことを指しているのか。
古代インドで生まれた「餓鬼」は「逝きし者」「死んであの世に赴いた人」を意味していた
「餓鬼」とは、古代インドのサンスクリット語で「Preta」、パーリ語で「Peta」と言い、もともとは「逝きし者」「死んであの世に赴いた人」、つまり死者を意味するものだった。そしてその「死者」は子孫の供え物を期待している「祖霊」という意味が加わった。
パーリ語による最古の仏教経典のひとつとされる『餓鬼事経(がきじきょう)』によると、例えば、以下の話しがある。
釈尊の前の時代、コカッサパ仏の時代に、ある比丘(びく)が身業(しんごう)はよく慎んでいたが、口業(くごう)を慎まず、他の比丘たちをなじってばかりいた。彼は死後、地獄に生まれ、釈尊がおられない一時代分、地獄で焼かれ続けていた。釈尊の時代になって、その比丘は地獄で死に、餓鬼に生まれた。そして飢えと渇きにさいなまれながら、王舎城(おうしゃじょう。マガタ国の首都)の近くの霊鷲山(りょうじゅせん)をさまよっていた。そのとき釈尊の弟子・ナーラダ尊者が、体は金色の輝いているものの、口だけが豚の口である餓鬼を見つけ、何をしたのかを問いかけた。するとその餓鬼は自分の身の上を語りつつ、「口による悪業をなさいませんよう」と訴えた。釈尊にその話しをしたナーラダ尊者に対し、釈尊も、その餓鬼を見たことがあると言い、口の悪業の不利益と口の善行の利得を説いたという。
「餓鬼」が古代中国に伝わると…
『餓鬼事経』には、このような餓鬼の悪因苦果を説く物語が全体の半数を占め、それを聞いた人が悪行を控え、善行を積むように目されていたことが推察される。
そして「餓鬼」の概念が古代中国に伝わり、漢字に翻訳される際、死者の霊を「鬼」と言っていたことから、「鬼」と呼ばれ、更に「祖霊」信仰における、子孫の供え物を待ちこがれ、餓えているものであるとして「餓鬼」と呼ばれるようになっていったという。
更に仏教においては、生きとし生けるものが輪廻する範囲を生存領域(趣 Gati)と呼び、5種或いは6種あると考えられた。人間を中心として、人間よりも優れた存在の神々、人間より劣った存在としての、畜生・餓鬼・地獄、または畜生・阿修羅・餓鬼・地獄の3種または4種が想定されていた。こうした中で「餓鬼」は「生き物」(有情 Sattva)である。石や水のような無生物ではない。善とも悪とも決定されず、人の修行の妨げになるものではないとされる。ただ、幽霊のようにふわふわとどこかに漂っている存在だという。
そしてその「餓鬼」が日本に伝わった
そしてそのような「餓鬼」たちは日本に伝わるうち、漢字の表す意味、「餓えた鬼」、がそのまま伝わった。仏教伝来当時、日本の僧侶たちによく読まれたという、2世紀にナーガルジュナ(龍樹)によってなされた『摩訶般若波羅蜜経』の注釈書である『大智度論(だいちどろん)』によると、「餓鬼」は、このように記されていた。
『腹は山谷の如く、咽は針身の如し。唯だ三事(3つのもの)のみあり、黒皮と筋と骨なり。無数百歳に飲食の名を聞かず。何ぞ況や見ることを得んや。復た鬼あり、火が口より出づ。飛蛾が火に投せば、それを飲食と為す。糞、涕唾、膿血、洗器の遺余を食するものあり。或は祭祀を得し(子孫が祀ってくれるので、供物を食することができる)、或は産生の不浄を食す。』
そして「餓鬼」のみならず、人間も、餓えたときにはどんな悪いことでもするということで、鎌倉時代に成立した『餓鬼草紙』などに、異様な雰囲気や性質が表現されるようになっていった。
「餓鬼」の特徴や性質。「餓鬼」の受ける苦しみとは。
しかも「餓鬼」が飢渇に苦しんで得脱できないのは、子孫が供え物をしないからであるとも考えられ、「餓鬼」が祀り手のいない無縁仏などの霊魂と同義語になり、それらを懇ろに祀らなければ、ムラや家に祟りを及ぼすと考えられてきた。その結果、盆の時期に寺で施餓鬼会(せがきえ)が行われ、各家々に餓鬼棚が作られ、また、先祖を祀る盆棚の傍らに、土器や蓮・サトイモ・柿の葉などに餓鬼飯が備えられるようになったという。
また「餓鬼」が持つ異様な雰囲気や性質とは、以下のようなものである。
(1)貪欲嫉妬の因縁がある
(2)慳貪で施しをしない
(3)仏法僧と貧窮者に施さない
(4)善根功徳をなさない
(5)禁戒を守らない
(6)妻子や奴婢には粗食を与えて、己は美食を飽満する
人々が、先に挙げた神・人間・畜生・阿修羅・餓鬼・地獄の六道のうちの「餓鬼道」に堕ちる。または「餓鬼」に生まれ変わるという。そして彼らが受ける飢餓の苦しみとは、下記である。
(1)何らかの外的条件に基づいて、食物が全く得られない。
(2)自身の身体に何らかの不具合があり、食物が食べたくても食べることができない。
(3)食物を食べることはできるが、その食物が自分自身を満足させない。
「餓鬼」は36種類も存在する
更に「餓鬼道」には36種の「餓鬼」が存在する。
5世紀に成立した『正法念処経(しょうほうねんしょきょう)』によると、鑊身(かくしん)・針口(しんく)・食吐(じきと)・食糞(じきふん)・無食(むじき)・食気(じきき)・食法(じきほう)・食水(じきすい)・悕望(きぼう)・食唾(じきたん)・食鬘(じきまん)・食血(じきけつ)・食肉(じきにく)・食香咽(じきこうえん)・疾行(しつぎょう)・伺便(しべん)・地下・神通(じんづう)・熾燃(しねん)・伺嬰児便(しえいじべん)・欲色(よくじき)・海渚(かいしょ)・閻羅王使、執杖(えんらおうし、しゅうじょう)・食小児(じきしょうに)・食人精気(じきにんせいき)・婆羅門羅刹・君荼火炉焼(くんだかろしょう)・不浄巷陌(ふじょうこうはく)・食風(じきふう)・食火炭(じきかたん)・食毒(じきどく)・曠野(こうや)・塚間住食熱灰土(ほうかんじゅうじきねつかいど)・樹中住(じゅちゅうじゅう)・四交道(しこうどう)・殺身(さっしん)と、詳細に、生前人々が犯した罪に応じた「餓鬼」のいる場所が定義づけられている。
このような餓鬼の1日は人間界の10年に相当し、しかも500歳まで生きるという。
「餓鬼」にならないための方法とは
これでは、漢字で書く「餓鬼」には全く救いがない。また「餓鬼」そのものも、我々が今いる世界とは全く異なる別世界にいるのではなく、我々のそば近くにいる誰かのひとり…、または我々自身であるとも考えられる。ただ、我々、または我々を知る誰かが「餓鬼」にならないためには、以下の方法があると教えられてきた。
(1)体が行う、殺生・偸盗(ゆとう)・邪淫を行わない
(2)口が行う、妄語・綺語・両舌・悪口を行わない
(3)意が行う、貪欲・瞋恚(しんい、怒り恨むこと)・邪見を行わない
しかし、そうはいかないのが人間の哀しさかもしれない。殺人や盗み、不品行は「絶対しない!したいとも思わない!」という人であっても、誰かに対する嫉妬、恨み節、うわべの褒め言葉、二枚舌、悪口などはついつい言いたくなってしまう。そして、「今は健康でも、将来、自分の身や家族に何があるかわからない!」からと、「見ず知らずの人に施すなんてとんでもない!貧しい人?それは、自己責任!自分には関係ない!」と、吝嗇を続ける人もいる。
そうではなく、必ずしも特定の宗教によらなくても、日本古来から伝わる「施餓鬼供養」などの伝統行事を通して、今ある自分は先祖のおかげであるし、自分自身も今は、健康面や経済的にはさほど困ってはいないが、どこかで貧しさで苦しむ人のためになれば…などと考えつつ、手を合わせるだけの心の余裕、そして自分自身を振り返る客観的な視点が欲しいものである。
参考文献:運命・信仰・迷信・供養・餓鬼の話、 往生要集 (同時代ライブラリー―古典を読む (281))、 日本民俗大辞典 上、 初期仏教経典 現代語訳と解説 餓鬼事経 死者たちの物語