中世の日本では、死者の魂が年末にこの世に帰ってくるという信仰があった。初めのうちは、帰ってきた死者の魂が滞在するのは、彼や彼女の遺族などの居住する家屋であるとされていた。
そして鎌倉時代には、死者の魂は一時的にではあるが、墓に滞在すると考えられるようになった。これは、安土桃山時代末期〜江戸時代に少しずつ広がり、近現代に強化された「死者の魂は、この世に留まる。そして墓や遺体・遺骨に宿る」とする信仰の芽生えである。
つまり中世には既に、現代型の「死者の魂が、自分の遺体や遺骨に宿る」という信仰の原型があったわけであるが、この時期には、特に身体の「どの部分」に宿るとされていたのだろうか。
喉仏が重要とされているのは仏に似た形状だから
現代の日本では、地域や宗教宗派にもよるが、しばしば「喉仏」が、遺骨の中でも大変重要な部分とされる。そしてしばしば、故人の魂が宿るものとされることもある。理由の一つには、仏像に似た形状であるから、というのもある。
ところで、古くから浄土真宗が広く信仰された地域の中には、一部の地域であるが、伝統的に「無墓制」(故人の遺体や遺骨を、風葬や散骨、本山などへの納骨などによって処置し、いわゆる墓を持たない葬法)が行われていた地域がある。
そうした地域のうち、鳥取県中部の湯梨浜町の浅津地区で行われていた無墓制では、故人の遺骨は細かく砕いて、近くの小川に散骨する。しかし、喉仏の部分は遺族によって竹筒に納め持ち帰られるという。
このように、無墓制による散骨が伝統的に行われていた地域でも、しばしば、喉仏は故人の魂が宿るものと信じられ別格扱いされる。しかし、この「喉仏に故人の魂が宿る」とする信仰は、少なくとも中世では、まだ非一般的であったと思われる。
なぜなら、古代〜中世の東アジアでは、死者の魂が宿る部分は頭部である、と信じられていたからである。
以前は喉仏ではなく頭部の骨が大事とされていた
そもそも「鬼」「魂」など、死者の霊魂と縁の深い漢字は、古代の中国で死者の霊魂が乗り移るとされた頭部のみの人形に由来する。また、中世に書かれた様々な説話集では、人間が怪物に食い殺される展開が多いが、そうした場合にも、犠牲者の頭部のみが残されたとする描写が大変多い。これも、死者の魂が戻ってくる部分は、頭部であるからだという信仰が大きな理由である。
更には沖縄や近隣の島々では、かつて「洗骨」や、遺骨の改葬の習俗があった。その際にも、遺体の頭蓋骨「だけ」を取り出して祀るしきたりが、沖縄本島の今帰仁や与論島など一部の地域では、近代まで続いていた。
こうしたことから、東アジアでは死者の魂が戻ってくる身体の部分は、「頭部」であるとされていたことがわかる。それを念頭に置くと、アイヌ民族や沖縄文化圏以外の日本で、喉仏を死者の魂の依り代として別格扱いするのは、少なくとも江戸時代以降ではないかと、推定できそうである。
参考文献:タブーに挑む民俗学―中山太郎土俗学エッセイ集成、 奄美・沖縄哭きうたの民族誌、 「青」の民俗学 地名と葬制、 鬼の研究