近代以前の日本の「人の死」に関する文化の中で、現代でいうところの「終活」や「遺言」としての役割を果たすものとしては、「遺訓」の他に「辞世」が挙げられる。
「遺訓」が、基本的には支配者階級が残したものに対し、「辞世」は、身分や男女・年齢を問わず残されている。また、刑死した人物、特にいわゆる政治犯として処刑された人物の辞世が多く残っていることも興味深い。
辞世を詠む、辞世の句など
こうした辞世は、古くから和歌や漢詩、江戸時代以降は俳句なども加わるが、いわゆる詩歌として残されることが多い。「辞世を詠む」という表現も、辞世はそうした詩歌の形で残されることが一般的だったからこそ、できた言い回しである。
辞世は、死に臨む者が、自分の思いを一応定型詩の形にできるまで整理することによって詠まれる。そのため、特に精神面に絞った「終活」だと言えるだろう。
ところで先程、特に政治犯として処刑された人物の辞世が多く残っていると書いたが、そもそも日本の辞世文化のルーツの一つは、まさにその「政治犯として処刑された人物が残した詩」であった。
政治犯が最後に残す漢詩 「臨刑詩」
王朝時代の中国では、政治犯として処刑される要人が多かった。そうした中で、もし政治犯として処刑される際には、自分の思いをきちんと整理し漢詩として残すことが、ある種の作法として定着していった。
ちなみにこうした、死刑囚が処刑を前に詠む詩を「臨刑詩」と呼ぶ。臨刑詩は、主に六朝時代頃までに多く詠まれ、その中には、奈良〜平安初期に日本に伝わり、上流階級の人々の教養に取り入れられた詩もある。
なお、臨刑詩は比較的新しい時代まで詠まれた。一番新しい時代の臨刑詩の例は、筆者の知る限りでは、19世紀半ばに起こった「太平天国の乱」が鎮圧された際のことである。清朝軍に捕らえられ処刑された太平天国の要人たちの中にも、臨刑詩を詠んだ人物が何人かいる。
辞世には文学的価値も認められた
一方日本では、特に江戸時代のいわゆる百姓一揆のリーダーや、幕末〜明治維新期の幕府側・新政府側双方の武士などが、処刑前に辞世を詠んだという記録が多い。そうした記録の中には、一揆のリーダーが辞世を詠むくだりで彼らに俳号が贈られたものまである。
このように、前近代の日本・中国共に死刑囚が詠んだ辞世が何度となく記録され、時には文学的価値を認められているのは、決して現代的な人権意識のためではなかった。
ただ、特に政治犯としての処刑である場合、死刑囚たちは表向きは「大罪人」とされたが、全ての人が心からそれに同意したわけではなかった。事実、一揆リーダーや太平天国要人たちなどは、むしろ民衆からは感謝し敬うべき存在とされていた。それは取り締まる側の人々も同様であり、「敵ながらあっぱれ」という念がなかったわけではない。このことも、当事者たちが辞世を詠む余裕・辞世を記録する余裕を持っていた理由の一つであると言える。