「大事なのはじいちゃんを想う気持ちだよ。だからそんなに心配することないよ」
そう祖母に言い聞かせたのは今から四年前、東日本大震災が祖母の住む福島の町を襲った直後のことであった。
壊れてしまったお仏壇
祖母の家は倒壊こそ免れたものの、家の中はそれはめちゃめちゃに変わり果ててしまったらしい。らしい、というのは私の被曝を懸念してか、祖母の方から来てはいけないと言われたために、その惨状を見てはいないからだ。家具は倒れ、ガラスなども割れてしまったそうだ。
なかでも祖母が一番嘆いていたのが、祖父の遺影が飾られているお仏壇が倒れてしまったことであった。観音扉の片方が折れ、灰があたりに散乱し、お仏壇もその灰を被って真っ白になってしまったらしい。
大事なのは、故人を想う気持ち
変わり果てたお仏壇を見て祖母は電話で「じいさんのお仏壇が倒れてめちゃめちゃになっちゃった。どうしよう」と弱々しい声で言った。
電話口に私がいるはずなのに、どこか独り言の様な、力のない声だった。私はしばらく黙ってしまって、何か言わなければと咄嗟に口から言葉が出た。
「大事なのはじいちゃんを想う気持ちだよ。だからそんなに心配することないよ」
それは今思えば本心の様で、その場を収めるために捻り出た無根拠な言葉の様でもあるように思う。しかし、その言葉を聞いて、多少の気休めにでもなったのか、祖母は「そうだね。そうかもしれないね。」と呟いた。
故人を身近に感じさせるお仏壇
今となっては祖母にとって、そのお仏壇は祖父との唯一の繋がりだったのかもしれない。祖父の眠るお墓は福島から遠く離れた千葉のお寺にある。そう安安とお墓参りするにはどうしても物理的な距離がある。しかしお仏壇にはお骨こそ無いものの、祖父の写真が立てられている。亡くなる少し前に家族で行った温泉旅行での一枚だ。祖母も母もその写真がお気に入りで、祖父が亡くなった後は、線香とご飯を供えながら、毎日その写真に語りかけているようだった。
その人がこの世を去ってもう二度と会うことが叶わなくても、その人が眠る場所がどんなに遠くても、寂しさを抑えて、毎日毎日その人を想うことができるのは、単に想う心だけが大事なのではない。近くにいるような、それでいて話を聞いてくれているような、お仏壇にはそう思わせる「身近さ」があるのだと私は思う。祖母は毎日祖父と会い、何気ない会話のやりとりをしていたのだと私は思う。お仏壇が家の中にあることによって、ある意味今まで通りの日常を送れていたんだと私は思う。
お仏壇を直したおばあちゃん
東日本大震災から2年程経って、私は震災以来初めて祖母の家へ行った。
震災直後のめちゃくちゃだったという面影はもうそこにはなかった。そう思えたのは家具やガラスが元通りになったというだけではない。
あのお仏壇も元通りになっていたのだ。
「お仏壇も直したんだね」と私が言うと、「そうなんだよ。やっぱりこれはじいさんの家だからね」と笑顔でそう言った。確かに一番大事なのは、故人を想う気持ちだ。それは間違いない。しかし、祖母がそうである様に、人は目で見て、耳で聞いて、口で話して、その人を身近に感じることができることに安心する。いつまでたっても、どのような形になっても、その人は大切な人なのだから。その人と変わらない毎日を送りたいと願うものなのだから。