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人は死ねばごみになるのか

がんで亡くなった元検事総長・伊藤栄樹(1925~88)は「人間は死ねばゴミになる」と言った。この言葉がタイトルとなっている著書を読めばわかるが、伊藤は決してニヒリズムやペシミズムでこの発言をしたわけではなく、その強靭な意思には敬服する他ない。しかし、一方で科学的世界観が支配する現代社会では、まさにこの字面通りに「人間」を解釈している「唯物論者」も少なくない。人間は死ねばゴミになるのだろうか。


8年が経過した現在も帰宅を待つ家族がいる

東日本大震災から8年が経ったが、未だ2500人近い行方不明者がおり、月命日(11日)には捜索が行われている。震災後8年が経った今となっては遺体(と言わせて頂く)の発見は、ほぼあり得ない。しかし、遺族は骨の一片でも出てきてくれればと願っている。

NHKのニュースサイトに掲載された4月11日の月命日の様子を紹介する。

「11日は午前10時に、亘理町荒浜の阿武隈川の河口近くの海岸に地元の警察官6人が集まり、海に向かって黙とうしました。そして10日から積もった雪をかき分けながら、かぎの付いた道具を使って枯れ葉を取り除いたり、波消しブロックの間を注意深く見たりしながら行方が分からない人たちの手がかりを捜していました。亘理警察署の戸島和樹地域課長は「行方不明者の発見に結び付く手がかりを1つでも多く発見して家族の元に返したい。震災を風化させないためにも捜索活動を続けたい」(NHK NEWS WEB2019年4月11日 12時01分配信)

亘理警察署の方たちだけではない。被災地の至るところで、捜索にあたっている人たちは口々に「家族の下に帰してあげたい」と語っている。

事件・事故の犠牲となった人たちの遺体が「無言の帰宅」をした時、遺族は「お帰り」と迎える。骨でもなんでもいい、冷たい海や寒空から暖かい家に帰ってきてもらいたい。それが家族の、捜索にあたっている人たちの心情である。


「命のリレー」の裏に潜むもの

その月命日の1週間前に、こうした心情とは真逆の報道が飛び込んできた。

脳死した男児(当時1歳)の肺が移植される様子を無断でテレビ番組(2017年7月放送)で放送されたとして、男児の両親が番組を放送したTBSと移植手術をした岡山大学病院、日本臓器移植ネットワークなどを相手取った損害賠償訴訟を広島地裁に起こした。

両親と代理人弁護士によると、番組は移植医に密着取材する内容で、両親には放送前に連絡はなく、肺が画像処理されずにそのまま映っており、番組を見た男児の母親は髪の毛が大量に抜けるなど精神的苦痛を受けた。

母親は「夢で息子に会うことだけが慰めだったのに、夢の中の姿さえ肺になってしまい唯一の安らぎを奪われた」と話した。

また、ドナー(臓器提供者)だと直接わかる情報は含まれていなかったが、手術した日などから知人に知られたとし、臓器移植法の運用指針に反する、プライバシーの侵害に当たるとした。(朝日新聞デジタル 2019年4月5日17時27分配信から抜粋)


遺体を「モノ」としてみる傾向があったからこそ起きた出来事

この記事で目を背けたくなる箇所が、「夢で息子に会うことだけが慰めだったのに、夢の中の姿さえ肺になってしまい唯一の安らぎを奪われた」というところだ。夢の中の息子が肺として現れるとはどれだけの苦痛であろう。

医療現場、医学の最前線の特集であれば、摘出された臓器はまさに番組の「肝」である。テレビ局としては臓器移植のリアルを伝えるための欲が出たのかもしれないが、どのような社会的意義があるにせよ、遺族にとっては晒しもの以外の何物でもない。

また、撮影を許した病院、移植ネットも同罪であると考える。内容の監修にあたったはずの医師らが画像処理をしないことにさほどの意識がなくても不思議ではない。医師にとってドナーの肺は部品、パーツに他ならない。部品だからこそ移植に使えるのだ。

ドナーの臓器を待つ、レシピエント(移植希望者)の命を救う「命のリレー」という美辞麗句の裏には、遺体を「モノ」としてみる唯物論が隠れている。


エンゼルケアは遺体をモノとして見ていない

多くの病院にはエンゼルセットと呼ばれる、死後処置セットが備えられており、死後直後の遺体は看護士らによる死後処置「エンゼルケア」が行われる。

医療器具の類を外し、体内の排泄物の排出などを行った後、口腔洗浄から洗髪、整髪などで外見を整えていく。最後に衣服を着せ、死化粧(エンゼルメイク)を施すのだ。エンゼルケアは、体液や排泄物による汚染や、病原微生物の飛散を防ぐなどの目的があるが、同時に、その人の最期の顔を大切なものと考え、家族の意向を尊重しながら、時には家族と共に「その人らしい」姿にして送り出すために行われるものだ。近年、見直しや改善が取り組まれており(鼻や肛門などへの綿詰めの廃止など)、その重要性が認識されつつある。ほとんどの人間は遺体を「モノ」として扱う気にはどうしてもなれないのである。


エンゼルケアにかかわらない医師は生者のための存在

エンゼルケアに医師は関わらない。医師は死亡を確認し臨終を告げたあと、看護士に任せ病室から去る。死亡診断やら、臓器移植の手続きやら多忙であるし、他の患者もいる。死後処置は医師がやる仕事ではない。医師は生きている者のための存在なのだ。

医師の仕事は治療である。患者の病気を治すまでが仕事であり、死んでしまった患者はもはや患者ではない。医師が次に遺体と会う機会があるとすれば、臓器移植以外にない。医師にはパーツの取り出しという作業が待っている。


仏心なき鬼手とならないことを願う

「鬼手仏心(きしゅぶっしん)」という言葉がある。元は仏教用語だが、医療業界でよく用いられている。

「外科医は手術のとき、残酷なほど大胆にメスを入れるが、それは何としても患者を救いたいという温かい純粋な心からである」(大辞林 三省堂)

もちろん心ある医師もいるだろうが、移植用の臓器をパーツ扱いする程の割り切りがなければ冷静で正確な手術はできないのかもしれない。一方で、遺体を「人間」として見ない唯物論的態度が、子供の肺を剥き出しにする放送を容認する隙を作るのではないか。医師には「仏心」無き「鬼手」とならないことを願う。


人は死んでもごみにならない

人間は死んでもゴミにはならない。我々はゴミを悼むわけでも、ゴミの帰宅を待っているのでもない。生きていようが、死んでいようが、その人であることに何ら変わりはないのである。人間の尊厳が加速する医療の進歩に置き去りにされてはならない。


参考資料

■小林光恵編著「ケアとしての死に化粧 エンゼルメイクからの提案」(2006) 日本看護協会出版
■田中愛子・岩本テルヨ「臨床現場におけるエンゼルケアの実態」(2008) 山口県立大学 看護栄養学部紀要 増刊号
■伊藤栄樹「人は死ねばゴミになる」(1998) 小学館文庫


ライター 渡邉 昇
エンゼルケアねまき

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