自分が当事者にならぬ限り葬儀とは参列することに意義があるものではないか。故人の人生最後の舞台が葬儀であり、参列者は観客に例えられる。故人との直接間接、濃淡強弱の付き合いの違いはあるだろうが、参列者それぞれの思いで舞台鑑賞するのだ。この舞台も時代の流れにさらされていくのだろうか。葬儀の場に臨んだ参列者がどういう舞台を鑑賞しているのか好奇心をたくましくして心のうちなども覗いてみることにしよう。
義理の参列者にとっての葬儀
義理で葬儀に行く人は多いだろう。どんな関係で参列したのかそれぞれだろうが、関係者ほどは悲しくない彼らは何を思って葬儀の時間を過ごすのだろうか。
久しぶりの黒服にアイロンがかかっていなかったことを気にしながら来たのだろうか。数珠とハンカチは忘れていないだろうか。そんなことを思いながらやって来た彼らは、香典を出して役目の半分は済んだと思ってほっとするだろう。
退出しやすい席を見つけて座る。知った顔が無いかと周囲を見渡す。居たら挨拶は欠かせない。仕事先の人であれば尚更だ。喪主に挨拶をする人が続く、自分は面識は無いがここは参列者の義務だと立ち上がる。花輪の数やら送り主の名前をチェックする。弔電のチェックも忘れない。焼香の順がやって来ると、他の参列者の流れに乗って素早く終える時と、大げさなお辞儀を方々に振りまいてアピールする時がある。焼香が終われば後は葬儀が終わるのを念じて待つだけでいい。
親しいものから見た葬儀
故人の友人である者は、老人でもない限り慌てて参列した者がほとんどだろう。老人は毎週のように知人や友人を送ることに慣れているだろうから、冷静なものだ。
この坊さんは、読経が下手だとか、袈裟が貧弱だとか、葬儀の会場の飾り付けがどうだと隣の席に語りかける。若い友人達は、びっくり仰天で駆けつけてきた。仲間を見つけて故人の死がいかに突然だったかを競うように述べ合う。女性の顔がハンカチで覆われる。故人の家族に駆け寄り、何やら言いたいことがあるが言葉が出て来ず支離滅裂な言葉が並ぶ。席では、遺影に微笑みかけられてこみ上げるものを我慢する。故人との思い出のスライドショーがそれぞれの心の内で行われているのだろう。
念仏を唱和する彼らの中で彼らの死生観が抽象から具体に変化する。初めて自分の中で「死」を意識する瞬間ではなかろうか。葬儀が終わる頃には、顔つきも変わってた。
義理と人情で成立っている葬儀
好奇心で参列者を覗き見たが、色んな思いがそこにあることが分かる。身内で「家族葬」をする人もいる。しかし、参列することで義理を果たしたい、焼香したい人がいる。疎遠だった友人知人の葬儀にせめて参列して送りたいと思う者がいる。
葬儀は、死者のためと言うよりは、残された者が故人が逝く事で起きた心の白波やうねりが凪ぐ場になるのだろう。葬儀を形式的といえばそれまでだが、そこでは義理と人情の舞台が毎度演じられている。