日本における葬儀の主流が仏式であることは、葬式離れが進む現代においても変わりはない。しばしば仏教本来の思想とはかけ離れているとの批判を受ける、いわゆる「葬式仏教」の成立は鎌倉時代を待たなければならないが、仏教伝来の時点で日本は仏教を仏教本来の形とは独特の形で受容していた。その根本には日本人の生活に深く染み込んでいる、先祖・祖先・父母を敬う家族観・倫理観があり、また聖徳太子(574~622)が十七条憲法の筆頭に挙げた「和をもって尊し」とする共同体重視の思想がある。
家族との繋がりすら不要なものと切り捨てた仏教の個人主義
そもそも仏教は出家を旨とする出離主義、脱世間主義的な要素が大きい。仏教では死後も、煩悩による生への執着のため、時には動物、虫などに形体を変えながら延々と輪廻転生すると説く。この苦しみに満ちた輪廻の輪から解放されるには、煩悩の元となる社会的地位、金銭など世俗の欲やしがらみを捨てて、俗世に対する執着を消し、一切を超越した涅槃=「空」の境地「解脱」に至ることであるとする。
この捨てるべき世俗のしがらみには家族、縁者などの共同体も含まれる。開祖である釈迦自身が一国の王子の身でありながら妻子、一族を捨てて出家した。さらに出家後に息子が生まれたと聞き、道を追求する上で障害とみた釈迦は「ラーフラ」(障碍)と名づけるに至っては、日本人の家族観、倫理観からすれば理解するのは難しいものであったはずだ。
そんな仏教を批判した儒教の思想は全体主義
日本において仏教と共に積み重ねられてきた儒教は、家族、長幼の順を重んじる。そうした儒教の教えは日本の家族・倫理観と相性はよかったと思われる。その儒教は仏教の出家という個人主義を人倫にとるものであると批判する。
儒学者・山崎闇斉(1618~82)は共同体を離脱し孤独の生活に入る釈迦の行為を「人倫を絶ち、ただ自家のために山林に独処」と切り捨てる。
また輪廻説に基づくなら、今生における父母は数ある輪廻のひとつに過ぎず父母は「仮託の具」、つまり仮の道具である。自分を生み育ててくれた父母は唯一無二の存在であり、これを仮託の具とみる仏教の教えは人の心ではないと非難した。
仏教の反論もわからなくもないが、日本人には不向きだった
これには仏教側も反論する。臨済宗の僧侶・隠渓智脱(1704~69)によれば、家庭を持てば富貴を欲することになる。富貴を欲すれば貧富に惑わされる。このような苦を捨てて仏道を成就するのだという。家族を持つことは守るものができるということだ。妻子のために富貴を欲するのは当然であろう。しかしそれにより様々なしがらみができ執着してしまうというのだ。
確かに人間は様々なものに囚われ、執着し、大切なものを見失う。金銭な社会的地位の為なら心を売ることもある。その点で仏教の教えは生きる指針になるだろう。また日本に伝来した大乗仏教では解脱の目的は、解脱できない多くの民を救う為のものであるり、決して個人主義に終わるものではない。
しかし先祖・祖先を敬い、家族を重んじる日本人にとって儒教によるこれらの批判は頷くところが多いのではないか。仏教の脱共同体の思想はそのままでは受け入れるのは難しいものがある。オウム真理教の出家制度が異様に見えたのはその奇怪な言動以前に、そもそも家族を捨てる行為が日本人にとっての一般常識、社会通念から見て受け入れ難いものであることが大きいと考えられる。
仏教伝来では、いいとこ取りをした日本
仏教伝来の際、日本においては出家・個人主義が受け入れることはなく、日本的な集団・全体主義による仏教受容が成された。そして仏教は国家鎮護のための呪術であると同時に、先進国・中国から伝来した最先端の学問として確立された。
このような仏教は民衆には遠いものだったが、これが幸いしたともいえる。仏教がその個人主義を前面に出していたら日本人に受け入れられただろうか。国家は共同体の最大単位であり、最小形態が家族である。葬式仏教と並んで評価が分かれる貴族仏教だが、日本が家族・家庭のレベルにまで仏教を受容するには、国家的な全体主義という段階を通過する必要があったのだろう。
何かと批判されがちな檀家制度と葬式仏教ではあるが
江戸時代になり寺院と住民をつなぐ「寺家制度」が確立される。江戸幕府によるキリシタン禁制下で、非キリシタンを証明するための「宗門人別帳」が元であり、これは戸籍の役割も果たした。この戸籍の下で住民が亡くなれば寺院が葬儀を執り行い、墓を管理する。そして過去帳に記入されることになった。明治以降も檀家制度として今日に至っている。
現代において檀家制度は葬式仏教と並び評判が悪く、寺院の収入源であるとの皮肉な見方が強い。しかし、檀家制度が家族を結びつけてきたことも事実である。
仏教本来の個人主義とはかけ離れたこの制度が徳川時代が終わっても継続したのは、日本本来の先祖、祖先を敬い、親を尊敬し子が受け継ぐということに根ざしたものだからであった。
日本仏教が影響を与えてきた家族観は見直されても良いかもしれない
超越的な世界を提供する仏教であるが、日本人の家族を大切にするという地味だが大切な倫理観に飲み込まれたことで、独特な展開を遂げた。その最も重要なことは死後も続く絆だろう。家族は生きている時だけのものではない。死してなお、法要や仏壇などを通して家族の絆は生き続ける。それが現代においてなお維持されているのは、批判されがちな葬式仏教や檀家制度あってのものだった。
「個」の尊重は否定されてならないが、家族の絆が稀薄になりつつある現代において、日本独特の仏教と家族との関係は改めて見直される。
参考資料:今井淳・小澤富夫編「
日本思想論争史」ぺりかん社 1979