東急大井町線・上野毛駅を降り、環状8号線を田園調布方面に歩いて行くと、玉川野毛町公園が現れる。テニスコートや野球練習場の傍らに、野毛大塚古墳と呼ばれる帆立貝形(ほたてがいがた)古墳がある。
野毛大塚古墳の成り立ち
1897(明治30)年に初めて発掘されたものの、その後はゴルフコースとなっていた。昭和末期から平成に入る頃には、古墳の頂上部分の盛土が崩れ、石棺の一部が露出し、墳丘そのものも崩落しかかっていた。それを危惧した地域の人々からの要請で、世田谷区教育委員会によって1989(平成元)年から発掘調査と保存・復元工事、整理作業が行われた。そして現在では、公園の一部となっている。野毛大塚古墳の大きさだが、墳丘の全長は82mで、帆立貝形古墳としては、全国最大規模を誇る。後円部の直径は68m、高さ11m、前方部は長さ15.5m、幅28m、前方部の脇に設けられた方形の造出(つくりだし)部は長さ7.5m、幅10mとなっている。また古墳の周囲には、都内最古の朝顔形と通常の円筒埴輪が配置され、更に最大幅11mの馬蹄形の周濠(しゅうごう)が巡らされていたことが明らかになった。築造年代は古墳時代の中期、西暦400年頃と考えられている。
帆立貝形古墳と呼ばれる野毛大塚古墳
野毛大塚古墳を含む、東京都世田谷区の東南部から大田区北西部にかけての多摩川下流域左岸にある洪積世(こうせきせい)台地は「荏原(えばら)台」と呼ばれ、4〜7世紀までにつくられた多くの古墳が分布することから、「荏原台古墳群」と称されている。それは、大田区田園調布にある「田園調布古墳群」、世田谷区野毛・等々力・尾山台にある「野毛古墳群」に大別され、野毛大塚古墳は後者に充当する。4世紀代につくられたと考えられる「田園調布古墳群」は主に、大型の前方後円墳だが、一方の5世紀以降につくられた「野毛古墳群」は全長30〜60mの中型規模の古墳から構成されている。しかも野毛大塚古墳は、大きな後円部に小さな前方部が付くことから「ホタテ貝」のように見える、「帆立貝形古墳」なのだ。
野毛大塚古墳で確認された武具や武器などの副葬品
このような野毛大塚古墳の後円部の頂上からは、「主体部」と呼ばれる埋葬施設が4箇所発見されている。中央の第1主体部は、古墳をつくった人物を埋葬したと思しき、長さ8mの「割竹形(わりたけがた)木棺」が発見され、その左には、長さ4.2mの「箱形木棺」の第3主体部、その左脇に長さ3.2mの「箱形木棺」である第4主体部、右側に長さ2.3mの「箱形木棺」の第2主体部がある。しかもこれらは同時期ではなく、50年ほどの間に第1→第3→第2→第4の順に埋葬されたものと考えられている。
しかも、古墳の副葬品と言えば銅製の鏡が有名だが、そればかりではなく、ここでは当時最新式であった甲冑、刀剣、鏃(ぞく、矢じりのこと)などの鉄製武具・武器が発見された。
何故、多摩川下流域北岸のこの地域を治めた首長を葬った墓所から、武具や武器が発見されたのだろうか。そのことについて、当時日本国内を統治していた「畿内王権」との関わりが指摘されている。
野毛大塚古墳と畿内王権の関わりとは
「畿内王権」の「畿内」とは、律令国家における地方行政上の特別区、すなわち、『日本書紀』(720年)の巻25、孝徳天皇の大化2年(646年)正月朔(ついたち)条の中で、「畿内とは、東は名墾(なばり、現・三重県西部)の横河(よこかわ)より以来(このかた)、南は紀伊の兄山(せのやま、現・和歌山県伊都郡かつらぎ町)より以来、西は赤石(あかし、現・兵庫県神戸市垂水区、須磨区)の櫛淵(くしふち)より以来、北は近江狭狭波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま、現・滋賀県大津市)より以来を畿内国(うちつくに)とす」と定められた地域のことだ。それは大化の改新(645年)以前におけるウチツクニ(ウチ。畿内)とヨモツクニ(ソト。畿外)の体制を継承したものだった。つまり、後に「畿内王権」となったウチツクニとは、カリスマ性を持つ天皇の下に結集して、畿外勢力への支配を強化していったものであると推察されている。
そして「畿内王権」とは、3世紀後半に奈良県北西部の奈良盆地周辺を支配していた大和の王権に代わり、4世紀後半から5世紀初頭に、現在の大阪の河内や和泉に出現した新興政権を指す。そして、「畿内王権」の王族たちを葬ったものであると考えられるのが、2010(平成22)年11月に、ユネスコ世界遺産暫定一覧表に記載された「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」である。
百舌鳥・古市古墳群とは?
「百舌鳥・古市古墳群」とは、大阪府南部の堺市・羽曳野(はびきの)市・藤井寺(ふじいでら)市の3市にまたがる巨大古墳群のことで、堺市の「百舌鳥」と羽曳野市・藤井寺市の「古市」の2つのエリアに分けられる。「畿内王権」が力を有していた6世紀後半までの間に、200基以上の古墳がつくられたという。
形としては、前方後円墳43基、帆立貝形古墳12基、円墳24基、方墳22基を数え、巨大な前方後方墳の周囲に「陪塚(ばいちょう)」と呼ばれる中小の古墳を伴っている。代表的なものとして、486mと国内第1位の墳丘の長さを誇る「仁徳天皇陵」、第2位の425mの「応神天皇陵」、第3位の365mの「履中(りちゅう)天皇陵」がある。その他、200mを超える古墳が11基あり、日本全国の巨大前方後円墳の約4分の1を占めている。
東京大阪間ほどの距離があった野毛大塚古墳と畿内王権の関係性とは
大阪の百舌鳥・古市古墳群から、東京・世田谷区の野毛山古墳群までは、400kmぐらい離れている。現在のように、飛行機・新幹線・自動車などの交通網が網羅している時代ではなかったにもかかわらず、野毛大塚古墳は「畿内王権」との深い関連が指摘されている。その根拠は何だろうか。
1つは副葬品の鉄製武器がある。大和王権の時代においては、服属または同盟・紐帯のシンボルとして、当時の貴重品であった中国製の銅鏡を地方の有力豪族に与えていたが、「畿内王権」においては、甲冑や直刀(ちょくとう)・剣・槍・鉾・鏃などの鉄製武器を与えていた。当時の日本国内では鉄の生産が可能ではなかったため、主に朝鮮半島から輸入されていたというが、その輸入ルート、または時を経て、自国生産を可能にする技術者集団を「畿内王権」が掌握していたこと。そして旧政権よりも武力的優位性を誇っていたことを意味しているという。特に、「短甲(たんこう)」と呼ばれる、胸部をガードする鎧(よろい)は当初、鉄の板を綴じ合せただけの簡便なものだったのが、だんだんと技術が進み、革で綴じたり、帯状の骨組みに鉄板を綴じ合せたりする新しい技術が採用され、生産量も増えていった。その結果、「畿内」のみならず、遠く離れた「畿外」の中・小型の古墳、帆立貝形古墳、造出付古墳から短甲が多く出土しているのだ。
次に古墳の形状や埋葬形式だ。野毛大塚古墳が、百舌鳥・古市古墳群にも存在する「帆立貝形古墳」と同様の形を取っているということ。そして野毛大塚古墳の第1主体部の埋葬状況が、木棺を覆う粘土槨(かく)の上に革製の盾が置かれ、棺内には主要な刀剣類が人体の両側に、甲冑と大量の武器類が足元に配置されている。これは古市古墳群内の盾塚(たてづか)古墳にも見られる形式である。これらは「畿内王権」が規定したと覚しい葬送儀礼が厳守され、野毛大塚古墳でも執り行われていたことを示している。
以上のことから、多摩川下流域、或いは南関東全域を統治していた可能性もある首長が、はるか彼方の中央政権と深いつながりを有していたのではないか、と考えられているのだ。
最後に…
現在の我々は、たとえ高スピードの乗り物を当たり前に使い、インターネットを通して多くの情報を検索することができても、「東京」〜「大阪」間は遠い。全くの別世界だと思ってしまうことが多々ある。もちろん、1600年以上前の日本人の移動手段は徒歩か馬、そして現代とは比べものにならない脆弱な船しかなかったわけなので、当時の南関東を治めていた首長たちにとっては、今以上に遠くの別世界に思われていたことだろう。絶対的、或いは神的な権威を有すると信じられていた支配者によって国が統治されていた古墳時代と、現代とを単純に並べて語ることはできないが、「遠い」「別世界」であっても、当時の「畿内王権」が、「畿外」の豪族たちに伝えねばならなかったこと、守ってもらわねばならなかったことを確実に伝え、それを野毛大塚古墳に葬られた首長は律儀に守ったことは驚くべきことである。多様で複雑な現代の日本社会を生きる我々は、古墳時代における地域のつながり、それに伴う葬送儀礼の統一性について、あえて今一度振り返ってみる必要があるのではないだろうか。
参考文献
■大塚初重「野毛大塚古墳」大塚初重・小林三郎・熊野正也『日本古墳大辞典』1989年 (104−105頁)東京堂出版
■大津透「畿内」下中弘(編)『日本歴史大辞典 (2)』1993年(712–713頁)平凡社
■坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋(校注)『日本書紀 4』1995年 岩波書店
■世田谷区教育委員会(編)『特別展 野毛大塚古墳の時代 畿内王権と古代の東国』2000年 世田谷区立郷土資料館
■大塚初重「講演 東京の古墳を歩く」坂詰秀一(監修)品川区立品川歴史館(編)『東京の古墳を考える』2006年(21−54頁)雄山閣
■世田谷区立郷土資料館(編/刊)『国重要文化財指定記念 野毛大塚古墳展』2016年