日本人全てが行なっているわけではないが、多くの人が集中力をつける、精神修養、身内・知人の供養、何かの願掛けなどの目的で般若心経の写経をしている。
国家主体で行われていた写経
写経は現在のような印刷技術がなかったこと、用いた紙そのものも高価であったことに加え、主に僧侶自身の仏道修行や学修、そして仏教の流布のために行われていた。天平期(729〜749)には写経所が設けられ、国家主体で行われてさえいた。
当時、写経所で写経生となるためには、一定の試験に合格しなければならなかった。彼らは主に中国や朝鮮半島からの帰化人や下級役人の子息だったとされるが、全盛期には700人もいたという。支給された写経用の衣類を身につけた彼らは、仏像が安置され、香が焚かれた部屋で、礼仏師がお経を読む声を聴きながら、1日中写経を行っていた。1日に書き写す枚数は平均して7枚で、1枚あたりの文字数は1行17字詰の25行、大体3000字前後だった。給料は写した枚数に応じて支払われたが、およそ4〜5文。金字・銀字の場合は7〜10文だった。金銭だけではなく、40枚書写したときに、調布(ちょうふ。土地の名産の布)1端(たん)など、現物支給の場合もあった。また、誤字脱字がわかったときは、例えば5字の誤字、20字の脱字があった場合は、紙1枚分が差し引かれ、1行まるまる脱字があると、紙4枚分が給料から差し引かれていたという。しかし自分で間違いに気づき、書き直した場合は、罰金が課せられることはなかった。仕事で用いる筆や紙は支給されていたが、紙は貴重品であったため、書き損じがあった場合や、途中までで仕事を終える場合には必ず計上し、上役に渡さねばならなかった。また、座り仕事であったため、当時を物語る「正倉院文書」の中に、「胸が痛み、脚が痺れるから、3日に1度は酒を賜りたい」など、書写生からの陳情文が残されているという。
分業制が用いられていた写経
また、写経所には書写生だけではなく、写したお経の題字を書く題師(だいし)、校正を行う校生(こうせい)、装潢生(そうこうせい。紙を染めたり、截(き)ったり、継いだり、軸や表紙をつけたりする係)、界生(紙に縦横の線を引く係)、筆生(筆を作る係)などがいて、各々分業体制で行っていた。更に金地経を作成する場合は、「金字経所」という特設の写経所で、写経生の中でも選び抜かれた者が字を書くばかりではなく、瑩生(えいせい)と呼ばれる、金字を磨いて光沢を出す係がいた。しかも写経に従事する者たちには身の清浄が何よりも貴ばれていたため、写経所で寝起きすることが定められていた。そのため、もしも病気などで帰宅する必要が生じた場合は、「請暇願」を提出しなければならなかったという。
平安期まで繁栄が続いた写経だったが、織田信長によって衰退の一途をたどる
このような国家事業としての大規模な写経は、平安期になってからも、有力な貴族が主体となって行なっていた。しかし戦国期に織田信長が比叡山の焼き討ち(1571年)や石山本願寺を討伐(1570〜80年)してからは、寺そのものの勢力が弱体化してしまった影響で、凝った紙、そして金銀を使うなどの、大掛かりなものはなされなくなっていった。そして江戸期も、個人的に写経を行う者はいたにしても、天平期のように国家レベルでなされることはなかった。更に明治以降も、廃仏毀釈の影響から、写経という行為が人々に「忘れられている」状況はより顕著になっていった。
しかし第2次世界大戦終戦以降、様々な動機や理由で、個人的に写経をする人が増え、現在に至っている。
金泥書法研究家の福島久幸が遺した写経
金泥書法研究家の福島久幸(ひさゆき、1922〜2014)は90歳を目前に歯科医を引退した後、自力で、先に述べた天平時代の金泥で書かれた写経を再現しようと決意した。それは1988(平成元)年に奈良国立博物館で、国宝である紫紙(しし、植物のムラサキで染めた紙)金字の「金光最勝王経(こんこうさいしょうおうきょう)」を目にしたことがきっかけだった。もともと6歳の頃から書に親しみ、第2次世界大戦時に応召されていた間でさえ、筆を手放すことのなかったという福島だったが、何故金で文字が書けるのか。1000年余りを経ても原型を保ちうる紙はどのように作られるのかという疑問を抱き、自らその疑問を解き明かそうとしたのだった。
専門家からのアドバイスや、当時を記録した「正倉院文書」などを手掛かりにして、福島が辿り着いた復元までの手順は、以下の通りである。
(1)楮(こうぞ)繊維を5mm以下に切断して紙を漉く。
(2)ムラサキの根から色素シコニンをアルコール抽出し、それで漉き上がった紙を染める。
(3)20枚の紙に水分を与えて、平らな石台の上に置き、皮革で包み、全体を等しく鎚(かなづち)で打つ。
(4)紙20枚を継いで約10mにし、縦横の線を引く。
(5)書写の前に紙をイノシシの牙や瑪瑙(めのう)、玉(ぎょく)などでさらに磨く(瑩紙、えいし)。この過程によって、紙の密度や表面の滑らかさを高めつつ、吸水度を低め、筆の運びを容易にし、金泥が剥がれにくくなるという。
(6)金粉と膠(にかわ)溶液を練り混ぜて、金泥を作る。小皿の金粉1gに、水100ccに膠1.1~1.3gを溶かした膠溶液を匙で1滴垂らし、指先で練る。金粉が光り出すまでそれを繰り返す。
(7)金字を書く。使用する筆は長くて細身、腰の強い筆を用いる。
(8)字の表面を滑らかにし、散乱している金粉の微粒子を平板にするため、書いた金字の面を磨く。その結果、金が光り、金粉と紙の繊維がより強く接着して剥離を防ぐことができる。
精神修行としての意味を持つ写経
こうして完成した10巻の「金光最勝王経」を福島は奈良・東大寺に奉納した。しかもその3年後に営まれた、光明皇后1250年御遠忌(ごえんき)の法要に、福島の金泥写経は読師の高台に置かれる栄誉に浴したという。
文章にするとたった8段階の作業だが、実際にやるとなると、大変という言葉で片づけることのできない、緻密な大仕事である。我々には到底真似できない集中力、そして根気のなせる技としか言いようがない。
法要に参加した福島は当時、「この日のために古代金泥書法を探求し、作業を重ねたようにも思った」という。印刷技術が今日の比でなく未発達であったため、貴重な文書はひたすら人の手で写すしかなかったこと、そして仏道修行、精神修養のためといった本来の写経がなされた目的を超え、福島の生き様・人生の集大成として、「写経」がなされた好例と言える。苦心の果てに福島の再現した「金光最勝王経」は1000年後も、オリジナルの国宝同様、輝き続けていることだろう。
最後に…
現代の我々が行う写経と福島がなしたものを比較するのは意味のないことだが、ただ言えることは、背筋を伸ばし、正座して、心願成就、誰かの菩提を弔うために般若心経を書き終えた時の達成感や満足度は、何ものにも代えがたいものである。たとえあまりうまく書けなかった…と苦々しく思ったとしても、昨日よりも、去年よりも、明らかに筆の運びは上達している。平静な気持ちを保てるようになっている。こうした向上ぶりを自分で認識できることもまた、写経の魅力だ。
お経とはもともと、仏教研究家の大森義成が言うように、我々がいかにこの人生を生き抜いていくかについて、様々な指針を示し、最終的には来世における魂の平安が説かれているものだ。それゆえ、「お葬式のBGM」とばかりに何となく聞き流してしまうのではなく、写経という形で、その言葉に「耳」ではなく「手」で触れてみるのも、混迷の時代を生きる我々に、時には必要なことと言えるのではないだろうか。
参考文献
■植村和堂『写経 見方と習い方』1982年 二玄社
■大森義成(編)『現世利益のお経 除災招福・家内安全編』2004年 原書房
■「千年輝く文字を求めて 奈良時代の『金泥書』、紙漉きから手法復元」『日本経済新聞』2012年7月26日
■福島久幸「金泥経と紙 –天平金泥経に先人の知恵と技術を探る」『紙 –昨日・今日・明日 日本・紙アカデミー25年の軌跡』2013年 (62−65頁)思文閣出版
■「ぴあmook 仏教の文化と作法、宿坊、座禅、写経…のすべてがわかる完全ガイド 修行体験&宿坊」2013年2月20日 ぴあ株式会社
■湯之上隆『静岡大学人文社会科学部研究叢書 46 日本中世の地域社会と仏教』2014年 思文閣出版