熱狂的なブームというわけではないが、日本では長らく、般若心経などのお経を心静かに写すこと、すなわち写経があらゆる世代の人々に人気を集めている。本格的にお寺に出向いたり、1泊2日の「宿坊体験ツアー」などで、座禅などの修行とともに行う人もいれば、字がきれいに書けるよう、または「頭の体操」として、毎日鉛筆やペンなどでなぞり書きができる練習帳を手に取っている人もいる。
写経が歴史において初めて確認されたのは最古の歴史書「日本書紀」
日本における写経は、『日本書紀』(720)の巻29に、天智天皇2(674)年3月に「書生(てかき)を聚(つど)へて、始めて一切経(全てのお経)を川原寺(かわらでら)に写さしむ」と記されているのが初出である。その当時、唐代の中国で仏教経典の漢訳に尽力した玄奘(げんじょう、602〜664)の門下に、日本からの留学僧だった道昭(どうしょう、629〜700)がいた。そのため、書生が写したという「一切経」には、道昭が日本に持ち帰ったものも含まれていたことが推察されている。その後、和銅3(710)年に長屋王(ながやのおおきみ、676/684?〜729)が文武天皇の崩御を悼み、大般若経600巻を書写させた。さらに天平時代(729〜749)になって、国家事業として写経所が設けられた。天平6(734)年に写経司となった門部王(かどべのおおきみ、生死不詳。天武天皇の孫)が一切経を書写させた。その願文(がんもん)に、「身を全うし、民を安んじ、業を存するは経史の中、釈教最上なり」とあるところから、仏教の教えを守ることのみならず、一心にお経を写すことが、国家の安寧を叶えるものだと捉えられていたことがわかる。
平安時代になってから写経は廃れていったが形を変えて残っていった
平安時代になってからは、国の事業としての写経は衰退した。しかし天台宗や真言宗の密教寺院においては、修行のみならず、相伝の秘法としてお経の書写は僧侶たちに依然として行われていた。また、当時は阿弥陀仏信仰がさかんになったことから、主に在家の貴族の間で、日常読誦する法華経の書写に、丁子で染めた紙や金銀泥を散らした紙を用いるなど、意匠を凝らした装飾経が作られた。そして何か自分が「大事業」を行う際に仏の加護を求めたり、極楽浄土への往生、身内の追善供養、そして一族の繁栄を願うなど、私的なものへと変化していった。
仏師・運慶が残した写経とは?
例えば日本を代表する仏師・運慶(?〜1224)は治承4(1180)年に、平重衡(しげひら、1158〜1185)が東大寺や興福寺を焼き討ちしたことに心を痛め、その3年後、焼け残った東大寺大仏殿の木を軸にして、法華経8巻の書写を発願(ほつがん)した。後に国宝となった『運慶願経(がんきょう)』で用いた紙は、工人に沐浴精進させて作らせ、写経の際に用いた、墨を磨(す)るための水は、比叡山横川(よかわ)、園城寺(おんじょうじ)、清水寺などから霊水を取り寄せていたと言われている。
崇徳天皇が残した写経とは?
また、菅原道真同様、非業の死を遂げたために、後に「祟り」「怨念」を怖れた人々によって手厚く埋葬された崇徳天皇(1119〜94)も写経を行ったと伝えられている。鳥羽天皇の第一皇子として産まれ、天皇となったものの、政争や後継問題に翻弄され、保元元(1156)年に、後に保元の乱と呼ばれる謀反を企てた。戦に敗れた崇徳天皇は讃岐に流され、帰京の願いも虚しく、配流先で悶死してしまった。『保元物語』(13世紀)などによると、崇徳天皇は讃岐で3年の月日をかけて五部大乗経を書写した。そこで「願(ねがわく)ハ、五部大乗経ノ大善根(善い果報を生むはずの善い業因)ヲ三悪道(死後の苦しみに満ちた3種の世界。地獄道・餓鬼道・畜生道)ニ擲(なげうっ)テ、日本国ノ大悪魔ト成ラム」と誓いを立てて、舌先を食い切り、その血でお経の奥にこの誓いの文を書いたと伝えられている。崇徳天皇が写した五部大乗経とは、華厳経60巻、大集経50巻、摩訶般若経30巻、法華経8巻、涅槃経40巻とそれらの開結経(かいけつきょう、本経が始まる前に読むお経と、終わってから読むお経のこと)を加えた全200巻にも及ぶ。私的な写経が主流になった平安時代でも、五部大乗経の供養は国家的大事業の中に組み込まれていたほど、権威があるお経だった。供養の際は、寺の釈迦像の前で5日間、朝夕2度の10講、合計10人の僧侶による講説と論義が行われる。特に京都・白河の法勝寺(ほっしょうじ)で行われた供養には、上皇や天皇が臨席し、重要な国家的行事と位置づけられていた。それゆえ、崇徳天皇の仇であった後白河上皇は、国家仏事の主催者として、皮肉にも、崇徳天皇が必死に写経をしていた間、自身の権力を背景にして、盛大な五部大乗経の供養を行なっていたのである。
思いを込めるという意味での写経が今後も継承されていくように…
仏教が今以上に我々の生活や価値観の全てであった時代と現代とでは、お経を書き写す行為や態度に大きな違いがあるのはあるのは言うまでもない。しかし写経には、昔も今も、人それぞれの思いが込められている。どんなにやり方が変わっても、その営みがこれからも継承されていくことを切に祈るばかりである。
参考文献
■植村和堂『写経 見方と習い方』1982年 二玄社
■小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守(校注・訳)『新編日本古典文学全集 (4) 日本書紀 (3)』 1998年 小学館
■栃木孝惟・日下力・益田宗・久保田淳(校注)『保元物語 平治物語 承久記 (新 日本古典文学大系)』1992年 岩波書店
■大森義成(編)『現世利益のお経 除災招福・家内安全編』2004年 原書房
■橋本義彦「崇徳天皇」平野邦雄・瀬野精一郎(編)『日本古代中世人物辞典』2006年(536頁)吉川弘文館