昨年末、朝日新聞にある記事が載りました。それは川崎市高津区内の霊園・納骨堂で「引き取り手のない遺骨」が増え続け、保管場所がなくなり、遺骨のイチ部を散骨・分骨する、というニュースでした。死亡当時は身寄りない人も、その後「引き取りたい」という遺族が現れる可能性があるため無期限で保管していた遺骨。それが増え続け、今では役所の倉庫のような、本来遺骨を安置するような環境でない所にまで保管しなければならなくなっているというのです。それらの遺骨を、散骨で供養し、残った遺骨を今後現れるかもしれない引き取り手のために保管し、納骨堂のスペースを捻出しようという動きです。
東京都葛飾区 埼玉県さいたま市 茨城県水戸市の対応は?
都市部の自治体は、施設の土地を確保するのも難しく、増える“無縁遺骨”に対応するためにはこうした決断は必然なのかもしれません。
例えば葛飾区ではこれまで、1柱一万円で保管場所を寺に委託し、引き取り手を待つ期間を三年としていましたが、保管場所に限りがある、という寺からの申し出が多くなり、保管期間を二年に短縮したということです。
かかえる問題は地方自治体も同じです。 さいたま市も、管理している納骨堂の無縁遺骨が増え続け、昨年度の引き取り件数が10年前の二倍なったといいます。水戸市などは「合葬式墓地」の増設を決定しています。ほかにも、無縁遺骨に関しては自然葬というかたちで遺骨箱を廃止する、という動きもでています。
単身世帯数が増えていることと引き取り手のない遺骨が増えていることの関係性
単身世帯の増加にともなって、2035年には国内の全世帯の37.2%が一人暮らしになるといわれている現在。これまでの「家族で支えあう」という枠組みがあきらかに変化し、敏感に反応する自治体とそうでない自治体の温度差も生まれています。大きな合葬墓地を持たない自治体などはどうしても対応を急ぐ必要がありますし、「家族」単位で暮らす世帯が多い地方はまだ緊急の課題ではないという認識もあるでしょう。
しかしいずれにせよ、これだけ「弔う」「供養する」という行為が「生活」の中から離れてしまったのはなぜなのか、考える必要があるでしょう。「引き取り手のない遺骨」とひとことで言っても、実は実際にまったく身寄りがない遺骨は少ないのです。
そもそも本当に引き取り手がいないのか?
自治体は、単身者が亡くなった場合、住民登録している以上は責任を持って身内を出来る限り探し出し、引き取る意志を確認します。ところが、家族や親戚がみつかっても「何年も連絡をとっていない」「家を出たきり連絡がなかったので関わりたくない」などという理由で遺骨の引き取りを拒否されるケースが多いのです。「単身世帯」の増加は、家族のつながりまでも遠ざけ、結果として「孤独」という悲しいかたちで終わるしかないのでしょうか。私たちは、新たな「弔い」のかたちを見つけなければいけないのではないでしょうか。
遺族に頼ることを諦めた横須賀市
そんな中で、血縁に頼らない弔いのあり方を模索する自治体の例があります。
横須賀市では“一人で最期を迎える人が増える時代に行政が出来ることは何か”をかたちにしようとしています。人口40万の都市で、無縁遺骨となる人の多くは住民登録もしているし、葬儀のための預金を残している場合もある。そんな“身寄りがいないだけ”の人たちのために、葬儀や納骨への意思を聞き取る事業を始めたそうです。2003年に年間約16柱だったものが2014年には年間60柱に増えていた無縁遺骨。それが、2015年7月から事業をはじめ、2016年には34柱に減ったといいます。
「弔い」「供養」を、家族ではなく「行政」が担う時代。
死者への敬畏をわたしたちは持つことができるのか。故人を想う、という行為を忘れずに生きることはできるのか。
無縁遺骨の増加とそれにともなう行政の決断は、大きな問題をわたしたちに突きつけています。