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【皿屋敷伝説】虐げられたことが原因で自ら命を絶ったお菊と現代の自殺問題

主人が大事にしていた10枚1組の皿のうちの1枚を誤って割ってしまい、井戸に身を投げて死んでしまった下働きの娘・お菊が夜な夜な現れ、「1ま〜い、2ま〜い、3ま〜い、4ま〜い、5ま〜い、6ま〜い、7ま〜い、8ま〜い、9ま〜い…」と数え、10枚目になった時、それが割れてしまって実在しないことを悲しみ、泣き叫ぶ。そして主人の家が没落してしまう…という伝説、通称「皿屋敷」伝説は、姫路の「播州皿屋敷」と江戸の「番町皿屋敷」が有名だ。


伝説とされていたお菊のお墓が実在した

こうした皿屋敷伝説のルーツは姫路の「播州」とも、江戸の「番町」とも言われるが、判然としていない。しかし日本の、北は岩手県の滝沢村から南は鹿児島県坊津(ぼうのつ)に到るまで、多少の違いはあっても以下の大筋で一致し、国内に48話存在するという。
 
(1)1人の奉公娘が、主人の秘蔵する一揃いの皿の1枚を誤って壊す。或いは、その娘に妬みを持つ何者かに皿を隠される。
(2)娘は皿の責任を問われて責め殺されるか、自ら命を断つ。夜になると娘の亡霊が現れて、皿を数える。
(3)犠牲になった娘の祟りによって、主人の家にいろいろの禍いが起こり、衰亡していく。

今回紹介する「皿屋敷」伝説は、福岡県の内陸部、筑豊地域に位置する嘉麻(かま)市碓井(うすい)に伝わるものだ。嘉麻市の皿屋敷伝説の場合は、お菊を責めさいなんだ主人がただ没落して終わりというわけではなく、お菊の霊を祀った祠(ほこら)と井戸、墓が存在しているのだ。


そもそも皿屋敷伝説とはどんな内容?

むかし、石竹(いしたけ)という村に清左衛門(きよざえもん)という大金持ちが住んでいた。清左衛門はとても珍しい10枚の皿を家宝として、自慢にしていた。ある時清左衛門に来客があり、皿を見せた。客はその皿をとても褒めていた。
客が帰った後、清左衛門が皿の枚数を調べてみたところ、1枚足りない。すぐに女中の菊を呼んで尋ねた。菊は「おかみさんがしまった」と言う。しかし清左衛門の妻は、「菊が直したのと違いますか」と冷たい眼差しで言う。菊は「さっきあの皿をおかみさんが…」と食い下がった。するとおかみさんは「主人に口答えするのか!」と喧嘩になった。
最終的に、菊に罪が負わされてしまった。悔しさのあまり、菊は井戸に飛び込んで死んでしまった。
それから毎晩、夜になると菊の幽霊が現れるようになった。「1枚、2枚、3枚…8枚、9枚…」と数えた後、泣き叫ぶのだ。
毎晩そのようなことが続くので、生前、菊と言い交わしていた三平と菊の母親は共に、四国八十八ヶ所の霊場巡りに旅立つことにした。巡礼を終えて播磨に渡った時、菊の母は亡くなってしまった。三平は播磨にとどまり、偶然にも菊という女性と所帯を持つことになった。
三平と菊は信心深く、暇さえあれば、お寺の説教を聞きに行っていた。そんなある日、本山からの高徳の僧が来られたというので、寺に行き、2人して話を聞いていた。すると突然、辺りが真っ暗になり、暴風雨になってしまった。
その雨が止んだ後、三平が周囲を見渡すと、菊の姿が見えない。最前まで菊が身につけていた着物一揃いだけが残されていた。三平が着物を取り上げると、着物の下から1枚の皿が現れた。何とそれは、菊が井戸に身を投げる羽目になった騒動の皿だったのだ。
三平は茫然としつつも、高徳の僧に一部始終を話した。そして改めて、亡くなった菊の回向(えこう)を頼んだ。
そして三平は因縁の皿をその寺に納めた。その後も三平は播州にとどまり、2度と筑前(ちくぜん。現・福岡県北部の博多湾側)に戻ることはなかった。


お菊のお墓が建てられ、現在にいたるまでの経緯

長らく福岡史研究に携わった安川(1981)や、精神科医の伊藤篤の調査(2002)によると、「皿屋敷事件」が起こった碓井村石竹の豪農・清左衛門宅跡に住んだ、酒造業を営む松隈弥三郎が1902(明治35)年頃、蔵を建てることになった。その棟上げの日に、突然家が倒れる異変があった。その後家運が次第に傾き、とうとう松隈一家は石竹を離れてしまったという。

その後、無実の罪を背負わされたお菊の霊を慰めるため、屋敷があった南の一隅、現在お菊大明神の社祠とは反対方向の西側に、石の唐櫃(カラト)が設けられた。それは1.2mほどの煉瓦積みの台上に置かれ、中には現在もお菊大明神の祭壇の前に供えられている小さな鉄製の鳥居や、木のお札などが収められていたという。カラトの屋根を形づくっていた笠石は現在、お菊の井戸のそばの、古い井戸枠の上に置かれている。

そして一説には1875(明治8)年とも、1935(昭和10)年とも言われているが、最初のお菊大明神の社祠が建てられた。「お菊大明神」という扁額(へんがく)を掲げた木の鳥居があり、祠(ほこら)の正面には祭壇が設けられ、壁と天井のいたるところに、人の手や足の形の板が打ちつけられ、「御頑成就」と記されていた。それらの一部は今も残っている。

現在の社祠は1996(平成8)年4月に建て替えられたものだ。お菊が身を投げたという井戸は、社祠の左前方に位置している。今は鳥居につけられていた木の扁額はなく、井戸のかたわらの立木に立てかけられている。そして社祠内部の壁には、地元在住の日本絵師・柴田翠山の手によって、色鮮やかな菊花や鳥などが描かれている。

そしてお菊の墓は、かつては現在の社祠の左脇に、六地蔵と並べて祀られていた。しかし明治の初め頃、理由は不明だが、そこから500mほど西南に離れた場所にある曹洞宗の永泉寺(えいせんじ)境内に、六地蔵と共に移された。現在は台石だけになり、法名などを書いた主柱がない。しかし現在も、六地蔵の右側に、静かに位置している。

お菊大明神は腰から下の病気快癒のご利益があるとされているが、今では訪れる人はあまりいない。40年ぐらい前までは、お菊の命日とされる6月24日に毎年地域の人々が社祠の前に集まって、共に飲み食いを楽しんだり、7月24日に六地蔵の前で「おこもり」をしたりしていたという。いずれにせよ、当時そうした儀礼に参加していた人々は、お菊の悲劇を「伝説」「怪談」などの「架空の話」ではなく、実際に起こった史実として捉えていたという。


皿屋敷伝説が福岡県の碓井町で生まれ広まった理由

何故、皿屋敷伝説が碓井町に生まれ、流布したのか。碓井町は平安時代から、遠賀川(おんががわ)水運の拠点だった。当時の嘉麻(かま)郡碓井郷は、太宰府の観世音寺(かんぜおんじ)の荘園だった。観世音寺が奈良・東大寺の末寺となった際、1127(大治2)年から、東大寺に年貢を納める必要が生じた。米は碓井郷から遠賀川(おんががわ)を下って芦屋(あしや)津まで運ばれ、そこから海運で難波まで運ばれていた。そのことから、京・大坂(現・大阪)の人々との文化交渉があった場所だった。そして江戸時代に入ってからも、遠賀川水運が廃れることはなかった。嘉麻郡内の藩年貢米は、郡内各地から、飯塚の上三緒(かみみお)まで運ばねばならなかった。当初は馬で運ばれていたが、寛政年間(1789〜1800)から再び、遠賀川水運が見直されることとなった。碓井町八反田に船入場を設け、御蔵に集積された年貢米を川ひらた(川船)に乗せ、遠賀川を下って、黒崎の御蔵元まで届けた。そこから更に沖船に載せ替えられて、大坂まで運ばれたという。

また、そもそも江戸時代に初代福岡藩主となった黒田長政、そしてその父・官兵衛(如水)は筑前土着の武将ではなく、播州出身だった。播州から筑前に彼らが入府した際、家臣はもちろんのこと、多くのお付きの人々、お気に入りの商人なども伴っていたはずである。その際、碓井町に限らず、福岡に多くの、「播州」文化がもたらされ、その中に「皿屋敷伝説」も含まれていたことは想像に難くない。『福岡県地理全誌』(1872/1989)によると、黒田長政一行が1600(慶長5)年に、筑前領主として豊前中津から筑前に向かう途中、嘉麻郡内の上臼井の郷士・臼井次郎左衛門安宣がそれを迎えた。そのお礼として臼井は領地150石を賜ったという。この際、長政一行が「土産話」で、臼井家の家臣や村人たちに「皿屋敷」の詳細を語り伝えたことも大いにあり得るだろう。

このように、遠く離れた京・大坂との長年に渡る交渉から、「播州皿屋敷」の話が碓井町にいつの間にか持ち込まれ、浸透したことが推察される。また、直接の関連性は不明だが、皿屋敷伝説は上方歌舞伎、江戸歌舞伎でも演じられ、大変好評を博していた。碓井町との関連としては、江戸時代の初めから明治にかけて、歌舞伎小屋、そして役者たちが住まう集落が、近在の芦屋や植木に存在していた。そこで「播州」あるいは「番町」を舞台とした皿屋敷ものが演じられていた可能性もある。更に、売れっ子戯作者・山東京伝(さんとうきょうでん)の手による『播州皿屋敷物語』(1811)、またはそれを模倣した読み物が地域の人々に読まれ、話が流布していたこともあるだろう。


当時、お菊のように虐げられていた人は少なくなかったはず

現実にお菊という下働きの女性が、主人から理不尽な扱いを受け、自殺を選んだ。しかし悔しさから成仏できずにいて、夜な夜な幽霊となって現れ、皿を数えていたかどうかは、今となってはわからない。ただ言えることは、とにかく我慢を強いられ、労働基準法など、労働者を守るための法整備が全くなされていなかった時代に、頑迷な雇い主からひどい仕打ちを受け、辛い思いをしていた人は多かったはずだ。そうした人たちにとっては、自分同様、立場の弱さゆえに辛い思いをし、自殺を選んでしまった人間が幽霊となって夜な夜な現れ、恐怖をもって主君に痛手を負わせる。最終的には、栄えていた家そのものが没落してしまうというストーリーは、ほんのわずかでもカタルシスをもたらすものであったのではないか。


武家社会が終わった後も、女性による住み込みの下働きは存在した

明治時代に入り、武家政治そのものは終わりを告げた。しかしそれでも、お金持ちの家に住み込み、家事労働などを行う、「下働き」の女性は存在した。それゆえ、「皿屋敷伝説」は単なる怪談話ではなく、当時の人々にとっては、現実的なリアリティを持つものだった。しかし戦後、幼いながらも「下働き」をしなければならなかった少女たちは、地域のお金持ちの家ではなく、商業地として活気がある博多を含む福岡の中心部、あるいは東京や大阪などの大都会に集団就職などの形で出て行った。そのため、お菊大明神を含めた皿屋敷伝説を物語る遺物は、地域の人々によって、今なお大切に保存されているとはいっても、かつてほど、身につまされる形で人々の心を掴むことがなくなった。それゆえに、お菊の魂を慰めるための行事が廃れていったのではないだろうか。


お菊のような最期を洗濯する人は、現代になってもまだまだ存在する

しかし現代もなお、就労形態や仕事の内容は異なっても、お菊のように上司や経営者から濡れ衣を着せられたことに絶望し、死を選ばざるを得なかった人は後を絶たない。とはいえ、その人が無実を訴えるために幽霊となって現れたり、自分を貶めた人を没落に導くことがあるかどうかはわからない。「祟り」かたまたまの偶然か、「因果応報」的な出来事が起こることもあるが、世の厳しい現実といえば、それまでのことだが、たいていの場合「加害者」は、傍目には何の罰も受けることなく、「憎まれっ子世に憚る」ではないが、幸せそうに生きているように見える場合も少なくない。そのため、傷ついて、前にも後ろにも動けなくなってしまったり、憤って抵抗しても、ますます自分が深手を負うばかりで何の意味もない。こう結論づけて、あえて「余計なことは何も考えない」ようにしながら、日々の生活を送っている人々も多いだろう。


最期に…

そうした「心」をなくした世の中にあって、嘉麻市のお菊大明神や永泉寺内のお墓などのように、血縁関係の有無に関係なく、亡くなった人の無念に心を寄せ、その遺構を守り続ける人々が、今の慌ただしい時代に果たしてどれだけいるだろうか。世の人々に、テレビや新聞、ネットなどの記事で現代のお菊同様の状況に置かれた人のニュースに触れたとき、かわいそうに、安らかに眠ってください、とほんの一瞬でも祈ることができる心の余裕があれば、お菊を含めた、絶望の末の自殺を企てた人の供養になるのではないだろうか。今が全くゆとりのない社会だからこそ、逆に嘉麻市の「皿屋敷伝説」が単なる「怪談話」ではなく、多くの人々が日本人から失われてしまったと嘆く、「人情」や自分自身の「心」を取り戻させるものとして、我々の心に染み入るものとなるのだ。


参考文献

■福岡県(編)『福岡県地理全誌』財団法人西日本文化協会(編)
■加來宣幸(編)『新版 日本の民話 30 福岡の民話
■劉寒吉・角田嘉久(編)『日本の伝説 33:福岡の伝説
■安川浄生『幽霊はでる―西日本の幽霊二十三話
■『日本民俗大辞典 上』福田アジオ・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄(編)
■伊藤篤『日本の皿屋敷伝説
■「筑豊の幽霊や妖怪 真偽求め…お菊の井戸に‘ぞくっ’ 嘉麻市に伝わる皿屋敷伝説 心霊トンネルも 福岡県」『西日本新聞
■「お菊大明神皿屋敷跡」『クロスロードふくおか』(公社)福岡県観光連盟(2007−2017)


ライター鳥飼かおる
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