科学は究極の厳正性と客観性が求められる分野であり、主観や予断、あいまいさは徹底して排除されなければならない。推測や予測を行う時も厳然たる事実や厳密な記録の裏付けがなければならない。このため、動物行動学では、行動記録をつけたり実験計画を立てる中で、いかにして擬人化を排除し客観性を保てるかが重要になる。人間心理の弱点として、他の動物の行動を人間の行動になぞらえて判断してしまう傾向が強いからである。
動物の行動を人間の行動でなぞらえるとは?
例えば、「動物園でシカにそっぽを向かれた。私のことが嫌いに違いない」とか「犬が微笑んでいる」といった表現は、擬人化の例だ。このような表現は実際上、その生き物の生物学的なプロセスや行動の本来の機序の科学的な理解を損ねる可能性がある。それゆえ、動物行動学の分野では擬人化になりかねない現象や行動の解釈に関しては極めて慎重になる。
動物も死を認識することが明らかになった
色々な動物種の行動研究が進むにつれ、動物学者達はある事に気づき始める。それは、動物は、自分と同じ種類の個体の死を認識できるらしいということ。そして、個体間の絆が強いほど仲間や家族が死んだ際に特別な行動を示すことが、膨大な観察結果から明らかになってきたのだ。この特別な行動は、単独生活をする動物より、高い社会性を持ち群生活する動物に多い傾向がある。仲間の死の際の特別な行動は、他の状況下ではまず観察されないので、科学者達のとりあえずの結論は「動物は仲間の死を認識できる可能性あり」ということだった。
アフリカゾウの場合
アフリカゾウは母系の群単位で生活するのだが、年長のメスとその姉妹、娘が群の中核を構成し、オスは一人前になると母親の群を離れ単独または2,3頭のオスの群として生活する。群れは伝統的な行動圏を持ち、経験のあるメスのリーダーが水場や餌場などに群を導く。メンバー同士の強い絆は一生涯続く。ある個体が弱って地面に横たわったまま動けなくなると群は移動をやめ、その個体を取り囲んで敏感な鼻先で優しく触ったり、さすったりするという。鼻を巻き付けて抱え起こそうとする個体もいるという。その個体が死ぬと、子供や姉妹は亡骸を鼻先で触り匂いを嗅ぐような行動を何度も繰り返し、長い時には数日間も傍らで過ごす。数年後、すでに白骨となった母の元に来て、頭骨に触ったりして数時間を過ごすことも観察されている。
キリンの場合
キリンでも仲間の死後、しばらく亡骸を円陣で取り囲みたたずみ、その輪の中心の亡骸の近くに子供や姉妹といったより近縁なものがいる傾向があるという。同様に、チンパンジーも死んだ仲間を取り囲んで体に触れたり匂いをかいだりして、数時間過ごすことが観察されている。ナショナルジオグラフィックの動画には、死んだ仲間の手を取って自分の口元に持っていったり、近くの小枝を折り取って歯をきれいにしてやったりといった場面が撮影されている。これらの行動は生きている個体の間ではまず見られない行動とされる。シャチやイルカでも子供が死ぬと、子供を水面に押し上げてやったり一緒に泳がせようとしたりする行動が数日間続くという。
鳥類の場合
鳥類でも仲間の死に遭遇すると通常は行わない行動を示す。アメリカカケスは仲間の死骸を見つけると、「ジー、ジー、ジー」と盛んに鳴きながら集まってくる。天敵や同種の侵入者に対しては、モビングと呼ばれる飛びまわって追い払う攻撃を繰り返すが、仲間の死骸に対して敵対行動は見られず、周辺にいる個体にも集まってくるよう促すようにも見えるという。そして、ほぼ丸1日、群はほとんど餌を食べに行かないという。
動物が死を認識しているのではないか?ということに研究者はどう考える?
客観性重視で擬人化はタブーとしてきた動物行動学者の多くは、結論を導くにあたって困惑しているようにみえる。これらの行動は、動物が仲間の死を悼み悲しむことを示すのかどうか?動物は悲しまないのか?悲しむのは涙を流す人間だけなのか?さらに言えば、悲しむという事は動物行動学的あるいは心理学的にどういうことなのか?この点を様々な角度から解明し整理するにはもう少しかかるだろう。
最期に…
T. Van Dooren は、彼の著書の中で、人間の環境に対する傲慢さの一因として、「Human Exceptionalism (「人間は例外」主義と訳しておく)」があると指摘する。感情を持ち意識的に行動できるのは人間だけで、他の動物にはないものとみなしてきたことが、環境に大きな負荷を与えるということにつながったのではないかと彼は言う。人間を含め高い社会性を持つ脊椎動物は進化学的にも多くの共通点を持つことは広く知られるが、数値化しにくい感情の部分は解明途上だ。しかし、豊な感情は人間だけのものではないことは想像に難くない。