1956年の経済白書に「もはや戦後ではない」と記されてはいても、決して「過去の出来事」ではない原爆被爆者をとらえた『ヒロシマ』、炭鉱閉山後の荒廃した筑豊のこどもに肉薄した『筑豊のこどもたち』、およそ15年の歳月をかけて、日本の代表的な寺社や仏像を撮った『古寺巡礼』シリーズなどの作品で知られる写真家・土門拳(1909〜1990)は、「鬼の土門」と呼ばれていた。
鬼の土門 仏の土門
社会派の写真家・江成常夫(えなりつねお、1936〜)はその理由を、「対象と向き合う時の眼差しに、シャッターを押す瞬間に、火の玉のようなエネルギーが込められてきたからだろう」と推察する。しかし土門は「鬼」だけではなく、「仏」でもあった。写真集『ヒロシマ』のケロイドの手、そしてそこに腿の皮膚を移植する手術をする人などの被写体を捉える眼差しは、確かに「鬼の目」だった。しかしそれは、「悪魔の原爆に向けた、怒りと憎悪の視線」であって、それと同時に、「被爆者に対する人間愛、人間の尊厳」への「仏の眼差し」も存在した。江成は、土門の仕事が見る側の心を引きつけて離さないのは、「鬼の土門」の一方で、「仏の土門」の心が、息づいているからだとも断じている。
また、写真家で日本大学芸術学部教授の秋元貴美子は、戦中・戦後を通して、写真を撮ることを決して止めなかった土門のことを、「無我夢中でとにかく『撮らなければ』いられなかっただけなのではないか。彼の晩年までの途方もない数の実作をみても判るように、その写真に対する鬼気迫る姿勢はまさに『生きる』こと=『撮る』ことであった」、「土門にとってカメラは心身と一体化した武装といってよかった…(略)…土門の写真にあふれる気迫は、『日本』という現象に対して、カメラを『構え』シャッターを『斬る』武士のごとくであった」と論じている。
そのように評される「鬼の土門」だが、自身が「鬼」であるばかりではなく、「鬼がつく」「鬼が手伝った写真」と語るときもあった。それは、例えば撮影中に、本来発光するはずの撮影用フラッシュバルブが1発、不発だったにもかかわらず、フィルムを現像してみたらすばらしい写真ができていたときのことなどを意味していた。本人も、「いい写真というのは、写したのではなくて、写ったのである。計算を踏み外した時にだけ、そういういい写真ができる」と、偶然の不思議さを認めている。
事実と真実は違う 真実を撮ることを大事にした土門
「鬼の土門」の写真美学は、「テーマ」、「写すもの」が何であれ、カメラの前に存在する、土門が写そうと思うものをレンズ越しに写そうとする、「リアリズム」の追求だった。終戦後の1949(昭和24)年、市井の人々の人間模様を題材とした「街」シリーズで自分の手応え、進むべき道を見出した土門は、西洋絵画の影響が強い芸術写真に対し、「サロン・ピクチュア」と批判した。そして現実を直視し、それをより正しい方向に向けようとする「抵抗の写真的発現」が、戦後写真界の世界的な主流であると主張した。しかも土門にとっての「リアリズム」写真とは、真実を愛し、表し、訴えるもののことだ。
そしてその「真実」とは、「事実」とは異なる。土門が言うには、「今、夜であるということは、事実ではあるが、真理とはいえない。その夜がぼくたちにとって、如何なる夜であるかということが具体的につかまれた時に、その夜が一つの真実を意味することとなる。つまり真実とはあくまで歴史的であり、従ってまた、人間的なものである」という。
日本文化を愛していた土門
しかも土門は日本文化について、「中国、朝鮮のイミテーションでは断じてない」と言い、「日本列島が東漸(とうぜん)する文化の防波堤となり、日本人が醇化発酵させた上澄液」であると述べ、日本文化の力強さに深い敬意を表していた。そして日本人については、「くだらないなあと匙を投げたくなったこともしばしばだった」と嘆息しつつも、土門の写真人生の中で永く日本文化に取り組んできたのは、「やはり日本人が好きだったから」。『ヒロシマ』や『筑豊のこどもたち』のような「社会派」のテーマを追いかけたことも、「ぼくの好きな日本人が苦悩する様を、横目に見て通り過ぎることができなかった」からだった。それゆえ、『ヒロシマ』を撮っても、京都・神護寺(じんごじ)で薬師如来に対峙しても、「ぼくの写真の中では1000年前にヴァイタリティを感じたのと同じ日本人が語り合っている」と語っていた。更に、「社会派」のテーマ、「伝統」をテーマを共に取り扱うことに関しては、「日本民族の怒り、悲しみ、喜び、大きくいえば民族の運命にかかわる接点を追求する点で、ぼくには同じことに思える。いわば前者が西洋医学の対処療法ならば、後者は漢法(かんぽう)医学の持久療法ぐらいの違いがあるだけで、何も問題意識に本質的な違いはない」と断じていた。
それゆえ土門は、「どういうふうに考え、どういうふうに行動するにせよ、日本人が日本人でなくなったら、無意味である。何よりも日本人が日本人を忘れたら、すべてはむなしい。結局、一日本人としての自分自身が日本を発見するため、日本を知るため、そして発見し、知ったものをみんなに報告するため」に自分は写真に取り組んできたと結論づけている。
2度、3度、脳出血で倒れて亡くなった土門
『古寺巡礼』シリーズを終わらせた後、1968(昭和43)年6月、58歳の土門は、取材先の山口県・萩で倒れてしまった。2度目の脳出血だった。病状は深刻で、意識回復後も言語不明瞭となり、右手と両足は全く動かなかった。しかし少しだけ動く左手で絵を描いたりするなど、血のにじむようなリハビリを行った。しかし以前の状態に戻ることは叶わず、土門は車椅子生活となってしまった。その結果、土門の視点は50cm下がった。その影響から、ロングの写真が多くなり、光を強く意識するようにもなった。また、それまであまり取り上げてこなかった風景や野の花を撮るようになり始めた。
1979(昭和54)年8月、土門と親交があった、草月流家元で芸術家・陶芸家・映画監督だった勅使河原宏(てしがわらひろし、1927〜2001)が、つねづね「福井にいらっしゃい」と言っていた。ちょうどその頃、勅使河原が福井県・武生(たけふ)の越前陶芸村に自分の窯を開くことになった。『古寺巡礼』に携わっていた頃から、陶芸や古美術品に興味関心を抱いていた土門だったが、越前焼の窯場を訪れたことはなかった。しかも当時の土門は、「もう撮るに足る人間はいない。花を撮りたい」と言い始めていたこともあり、「越前の水仙を撮りたい」と、福井行きを決意した。そこで撮影した水仙、永平寺(えいへいじ)、そして「平等(たいら)の共同墓地に珍しい甕墓(かめはか)がある」と勅使河原から案内された「越前甕墓」の数枚の写真が土門の遺作となった。
土門の遺作となった越前甕墓
「越前焼」とは、福井県丹生(にゅう)郡織田町(おたちょう)・宮崎村(現・越前町)を中心につくられた陶器で、12世紀中葉に、古代の須恵器生産技術や愛知県の猿投(さなげ)窯や常滑(とこなめ)窯などの技術を導入したものと考えられている。製品は主に壺・甕・摺鉢(すりばち)などの焼締陶(やきしめとう)で、鎌倉〜室町時代に興隆期を迎えた。流通圏は日本海沿岸の北海道から鳥取県まで及んだという。しかし大正時代になって後、常滑焼との競合に負けた多くの窯元が廃業し、存亡の危機に見舞われていた。しかし1971(昭和46)年、「越前陶芸村」がつくられてから、伝統の火が消えることはなくなった。
かつての平等は、越前焼きの大甕づくりが盛んに行われていた場所だった。しかし撮影当時、窯は1軒しか残っていなかった。「甕墓」は田んぼの向こう側の鎮守の森の中にあった。そこに向かうため、スタッフは30cm幅のあぜ道を、土門を背負う人、車椅子を持つ人、撮影用のレンズやフィルムケースなどを持つ人と分担し、1列縦隊に並んで歩いた。
件の「甕墓」は、主に北部九州で見られる弥生時代の墓制、「甕墓」とは全く異なるものだった。日本では、室町時代前後から石の墓を建てる習慣が広がった。しかしそれは比較的上層階級に限られるものだった。越前の「甕墓」は、石塔を買うことができなかった貧しい人々が建てたものだと考えられている。
甕墓を見た時の土門
「甕墓」の前に着いた土門は、激しい落胆に襲われる。確かに、茅が生い茂る草むらに、甕を逆さにして伏せた状態で地面に置かれている「甕墓」そのものは、数個存在していた。かつては何十個もあったというが、心得違いの骨董屋によって盗まれ、壊され、荒廃していたからだ。しかし荒れた墓のひとつを見ると、石で叩いたような小さな穴が空いていた。穴の中には白い遺骨が見えていた。墓の周囲には点々と白い石が落ちていた。土門は撮影の邪魔だと、石を取り除こうとした。手に持って見ると、軽くて、もろい。それは石ではなく、人骨だったのだ。「さわらぬ神に祟りなし」と、土門やスタッフは白い石を気にしないようにした。また、墓の中に、赤い帽子によだれかけをつけた、かわいいお地蔵様が祀ってあるものが数基あった。それらを見たとたん、土門は付き添うスタッフに、「カ、カ、カメラ」と大声で叫び、撮影を促した。ひとつひとつを可憐なものだと、「鬼」ならぬ「仏」のまなざしで撮影をすませた。土門は最後となった『越前甕墓』の撮影記で、自ら撮影した「かわいいお地蔵様」を、「4つ5つの乳飲み子を祀ったものに相違ない」と振り返っている。
東京に戻って1ヶ月ほど経ったとき、土門は3度目の脳出血で倒れてしまった。血栓を起こした箇所は手術不可能で、11年間意識不明状態が続いた。看病を続けた土門の妻・たみは、当時の土門が、「何も話さない苦しそうな表情もしないけれど、ときどき目を開けちゃ、何かをじっと見ていました」と振り返っている。1990(平成2)年、土門は80歳で永眠した。
土門の死生観とは
生前の土門は、自身の死生観について、以下のように語っている。
「人間はなかなか死なないものだと、誰がいおうとも、ぼくは信じない。人間の善意や愛情とかかわりなしに、死は、不意に、容赦なく襲ってくる。現にぼくたちは毎日街を歩いていて、自分たちのそばを走り去るトラックや円タクに、何度、ハッとさせられているかわからない…(略)…いわば、死は、日常不断にぼくたちの1メートルのそばを走り去っている。死と生とは、すれすれに隣合っている。死か生か、2つに1つの厳粛な結果だけが、事実としてぼくたちの生活の瞬間瞬間を決定しているのだ」。
この死生観に裏づけられた、土門にとっての「リアリズム」とは、「人間の全存在を決定する事実というものの絶対性に帰依する…(略)…カメラのメカニズムこそは、事実そのものの鋭敏なレコーダーであり、逆にまた仮借ない嘘発見器でもある。それは自分と他人の生きていることの実証そのものである」。単なる「手法」、または「ハプニング」「センショーナリズム」などを捉えただけの「リアリズム」ではなく、まさに「生」と「死」を賭けたものだった。それこそが、土門を「鬼」、そして「仏」たらしめているのだ。
最後に…
1979年以降、撮影不可能なまま、命の炎を消してしまった土門だったが、果たして当時の日本、そして彼の死後、1990年から現在までの日本に、土門が撮りたい、そしてそれを「鬼」が手助けしてくれるものはあるだろうか。あれから日本には、「いろいろなこと」があった。そしてこれからも、何が起こるかわからない。もしも土門が今、生きていたなら、「鬼」、「仏」の土門の目は、我々が「すばらしい!」と価値づけているものではなく、むしろ、忘れ去っていたり、つまらない、当たり前として見過ごしてしまっているものを見出し、激烈な写真を撮ってくれるかもしれない。
参考文献:死ぬことと生きること、 続−死ぬことと生きること、 木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯、 日本近代文学大事典〈第1巻〉人名 あ-け、 福井県の歴史 (1973年) (県史シリーズ〈18〉、 全国伝統やきもの窯元事典、 我が師、おやじ・土門拳、 土門拳 写真論集