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「虎は死して皮を残す 人は死して名を残す」をある人物の生涯から考えてみた

鎌倉時代の倫理道徳、幕府の教宣を記したとされる『十訓抄(じっくんしょう)』の中で、奈良時代の高僧・行基(ぎょうき)が臨終の際、弟子たちに教え戒めた言葉のひとつとして紹介されている言葉に、「虎は死して皮を残す、人は死して名を残す」というものがある。

この言葉が持つ意味、そして重さを、あるひとりの考古学者の一生を通して、考えてみたい。

「虎は死して皮を残す 人は死して名を残す」をある人物の生涯から考えてみた

ある人物とは、松本清張が記した「断碑」という作品のモデルになった「考古学者・森本六爾」

昭和の推理小説作家・松本清張(1909〜1992)が著した『断碑(だんぴ)』(1954・『風雪断碑』から改題)という短編小説がある。

「木村卓治はこの世に、3枚の自分の写真と、その専攻の考古学に関する論文を集めた2冊の著書を遺した。」

で始まり、

「遺品は埃をかぶったマジョリカ焼きの茶碗と菊判4冊分の切抜きがあるだけであった。」

で終わる。

『断碑』は、夭折した市井の考古学者・森本六爾(ろくじ・1903〜1936)をモデルとして描かれたものである。森本の弟子のひとりであった藤森栄一は、清張による「木村卓治」は実際とは異なり、「冷たい、むしろ残酷なほど無残な、ねばっこい人の影像」を有する「清張型主人公」の原型だったことを指摘していた。
清張自身もそれを認め、後に、「『断碑』を書いたことで、私は文学的にも自分の道を発見したように思っている」と振り返っていた。そして、文芸評論家の平野謙も、清張が森本に自己の分身を発見し、その発見と共感を制作モティーフの根幹にすえている。それゆえに『断碑』は普通の伝記小説とは異なると述べていた。また国立民族歴史博物館名誉教授の春成秀爾も、清張自身が造形した人物像とはかけ離れた森本のエピソードを意図的に書き記さなかったこと。そして創作前の取材において、キーマンとなる人物とあえて会わなかったのは、清張自身の創作イメージが壊れることを避けたのではないか、と推察している。

森本が生きた、わずか32年の人生よりも、はるかに長い年月が経過してしまった今、果たして森本自身は世に自身の「皮」を残したのか、それとも「名」を残したのか。

考古学者・森本六爾とはどんな人物だったのか

森本を直接知らず、彼が残した文、生前の彼を知る人へのインタビューなどの情報を集める中で、自らあえて描きたい主人公像の原型を見出した清張にせよ、森本のそば近くにいた人にせよ、共通して評される森本について紹介する。

「あの頃では珍しいダブルボタンの三つ揃いを身にまとい、黒いベロアのソフト帽を被り、黒い靴のカカトでカツカツと音を立てながら、実にサッソウと闊歩されている」
「全くもってキザな奴」
「大正末期〜昭和初期当時のアカデミックな考古学への反逆に一生を賭けた」
「彼の前半生は燃えるような激しい衒気と闘争心ではじまった。立ちはだかるあらゆるものを突きとばせ、そういう気概だった」
「境遇と才能のアンバランス、そこに生ずるコンプレックスを逆手に取って、あるいは芸術の世界にあるいは学問の世界に、自己の才能の声価を確立しようと焦慮して、ついに狂気したり身を破ったりする人々の轗軻不遇の生涯」
「論敵が多く、なかなか人とおりあうことができなかった」

しかし森本は時に、弟の十三男に「今までの学問の世界をすっかり捨てて、市井の平凡な一俗人として静かに生を楽しみたい」ともらしつつも、「考古学は物を取り扱う学問だから、精神(こころ)が必要であると我々の時代は叫びたいのである。精神とは我々を顧ることなくして存在しない」と語り、考古学への愛を語っていた。それは決して、森本が「名」だけを欲し、それを一生涯求め続けていたわけではなかったことを証明している。

考古学に熱中した若き頃の森本六爾だったが…

そのような森本は1903(明治36)年、奈良県磯城郡織田村大泉(現・桜井市)の素封家の家に生まれた。10人兄弟の長男だった。父・猶蔵は小柄で筋肉質、理詰めで陰性の性格、母・すえのは大柄で小麦色の肌を持つ、明るい性格の持ち主だった。
幼い頃の森本は弱い泣き虫だったが、近所の子どもたちとよく喧嘩していたという。畝傍中学校に進んだとき、『万葉集』に熱中し、自作の和歌を詠んだりしていた。その後、考古学に熱中し、親に内緒で国学院大学を受験する。合格したにもかかわらず、自身は長男で、下に兄弟が多かったために、進学を断念せざるを得なかった。そして近在の三輪尋常高等小学校の代用教員となる。

その間森本は、精力的に奈良県内の遺物・遺跡を調べ回った。森本としては、最終的に校長となり、無事定年を迎え、自身の老いをわずかな恩給でいとおしむ人生には納得できなかったのだろう。1921(大正10)年、18歳のときに『考古学雑誌』を出している考古学会に入会する。翌年には、知人で、後に日本史学者となった田村吉永と共に、同人誌『土』を創刊する。そしてそこに、「大和屏風寺之前古墳」を掲載した。森本の「デビュー作」である。更に京都帝国大学の梅原末治(すえじ)の古墳研究を知ることとなり、暇さえあれば、梅原がいる考古学研究室に押しかけ、あれこれ質問したりしていた。梅原の筆跡をそっくり真似るぐらい入れ込んでいたという。そんな森本には「悪気」はなかったのだろうが、年がさほど変わらず、自分同様、中学卒業であるにもかかわらず、優れた論文を多くものした梅原に「親近感」を持っていたのだろう。梅原のことを「梅原君、梅原君」と呼んでいたことを、梅原自身、そして周囲の者から不興を買い、研究室を「出入り禁止」になってしまった。

研究室を追い出されても諦めなかった森本六爾

しかし森本はそれに屈せず、1922(大正11)年9月、「考古学雑誌」に「大和に於ける家型埴輪出土の二遺跡について」を投稿した。彼はその論文において、文体のみならず、慕っていた梅原の研究とは「違う」、自身の独自性を打ち出そうと工夫を凝らした。その後森本は毎月のように、「考古学雑誌」に投稿を続けた。たまたま、「考古学雑誌」の編輯を担当していたのが、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)で働いていた考古学者・高橋健自(けんじ)だった。高橋は、森本の在籍期間とは重ならないが、畝傍中学校で働き、近在の遺跡調査を行なっていた。それゆえ高橋としては、若く熱心な森本を心から激励したい気持ちがあったのだろう。森本に手紙を送ったのだ。

それに森本は強く感動し、代用教員の職を辞する覚悟で、衝動的に上京してしまう。高橋は驚いたものの、博物館は人手が足りない状態だった。そのため、助手として森本を雇い入れようとした。しかし事務員の反対から、それが叶わなくなってしまった。そこで高橋は、博物館の総長で、東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長でもあった三宅米吉を紹介した。三宅は森山を引きとり、師範学校内の小陳列館に席を与えた。そこで森本はより、精力的に研究を開始した。「いろいろあった」高橋の家の隣に下宿し、何の権限もないにもかかわらず、高橋が黙認する格好で、博物館の倉庫に頻繁に出入りしては、資料の図面を描いたり、拓本を取ったりした。そしてそれらを用いた論文を大量に書き、「考古学雑誌」に投稿を続けた。しかし、1926(大正15)年の暮れ頃に、博物館員からの抗議によって、またも森本は博物館を「出入り禁止」になってしまう。

どんな災難や苦境にあおうともそれでも諦めなかった森本六爾

しかしそれにめげる森本ではなかった。「打倒官学」「反高橋健自」をあからさまに表に出しつつ、研究を続けた。普段は勤め人をしている在野の歴史研究好きの仲間とともに、「考古学研究会」を立ち上げた。そこで雑誌「考古学研究」を創刊し、自ら編輯に当たった。

1927(昭和2)年には、東洋史学者の中村久四郎(きゅうしろう)と共著で『日本上代文化の考究』を出版する。この本の内容は、女性の装身具の櫛・簪などについて考古学的に論じたものだが、恩師・三宅の妻の一周忌に捧げた記念論文集でもあった。また、翌年2月に行われた、会の研究旅行の際、教員をしていた浅川ミツギと知り合い、結婚する。ミツギは終生、森本を経済的に支え続けた。

しかしこの幸せは長くは続かなかった。1929(昭和4)年10月に、森本にとって愛憎相反する高橋が亡くなった後、11月には、恩師であり、森本の後ろ盾であった三宅がなくなってしまう。森本は東京高等師範学校にとどまることができなくなった。その結果、自身の研究、学会、そして生活全てを、ミツギの教員としての給料、そしてその合間を縫っての家庭教師のアルバイトに頼る羽目になってしまった。新たに職を探すよりも、ミツギの思いもあって、森本は研究に没頭することに決めた。そして自身の学会により多くの人を集めるため、新たに組織を「東京考古学会」と改組し、雑誌「考古学」を出すことにした。

フランスに渡った森本六爾だったが、わずか一年で日本に帰国

考古学研究そのものが「儲かる」ものではなかったため、金策に苦しんだこと、そして当時、知己の考古学仲間がフランスに留学したこともあり、森本は「研究者」、そして「男」として、強い焦燥にかられてしまう。そこで、かつて向こう見ずに高橋を頼って上京した時同様、森本もフランスに行くことを決意した。当時洋行した人々は、よほど富裕な者か、官費の支援を得ることができる博物館員や大学教員に限られていた。富裕でもなく、在野の研究者でしかなかった森本には何の当てもなかった。とはいえミツギの奔走のおかげで、1931(昭和6)年4月、フランスに旅立つこととなった。

最初のうちはエッフェル塔の観光や、パリの博物館を巡り、多くの考古学者との対面が叶うなど、森本にとっては喜ばしい日々が続いた。しかし当時の、フランスの考古学界は旧石器時代の研究が盛んであったことから、森本が研究しようとしていた、中国大陸から流入した、日本における青銅器文化にまつわる知識を得ることができそうもないため、森本は失望感に襲われ始める。また、経費を少しでも浮かせようと、シベリア鉄道を使って迂回してフランスに行ったことから体力を消耗してしまった森本は病を得、外を出歩くこともままならなくなってしまった。それゆえ、2年間の予定だったところを、1年で戻ることを余儀なくされてしまった。

晩年の森本六爾と考古学

日本に戻った森本は、日本の「原始農業」への関心を強くし、自身の研究の集大成と言えるものを残すことになる。もともと森本がそのことに興味を持つきっかけとなったのは、1923(大正12)年、まだ奈良で代用教員をしていた当時、唐古池(からこいけ)で採集した土器の底に籾の跡を発見したことだった。若い森本は弟の十三男と、当時は主流ではなかった「石器時代に稲あり」という説を立証しようという夢を抱いたのである。

しかし昭和8(1933)年11月、精神的にも肉体的にも、森本の研究のために無理を続けていたミツギが病に倒れ、勤めていた学校を辞めざるを得なくなってしまった。森本も同様に、渡仏以来の病に苦しんでいたが、自らの説を究めたいという一念で、辛うじて生きているような格好だった。そうした中、京都に拠点を移した森本は、悲境を救いたいと手を差し伸べてきた京都帝国大学の浜田青陵(せいりょう)から、再び考古学教室に招かれ、客員の形で研究奨励金を得ることとなった。しかしそれも、長くは続かなかった。森本の支えであったミツギは昭和10(1935)年11月に亡くなってしまった。自身の体調も悪い。世話になっていた寿徳院(じゅとくいん)の院主から「こんなからだで、どないして、東京までいなはります」と泣いて止められたにもかかわらず、森本は東京に戻って行った。

東京での森本は、愛弟子のひとりであった杉原荘介に「自分の最期は近づいた」と、自らの遺著を書くことを宣言した。そこで12月28日、病床の中、1枚口述しては30分休み、息切れ、疲れ、懊悩、苦渋の時を経て、原稿用紙10枚分の「弥生式石器と弥生式土器」を残す。そしてその翌年、昭和11(1936)年1月22日に、亡くなった。臨終間際に駆けつけた弟・十三男に「カラコ…カラコ…」と途切れ途切れにつぶやいていたという。

森本六爾が残した功績

1920年代後半(大正10年代)〜1930年代中頃(昭和10年)、森本が代用教員のかたわら、「考古学雑誌」に投稿を繰り返していた20歳ぐらいから、亡くなる32歳までのわずか12年間で「遺した」、学術的な実績を、考古学者の石川日出志(ひでし)は、第1期・第2期・第3期に分け、列挙した。

第1期は、代用教員時代から、東京帝室博物館を「出入り禁止」になるまでの間で、京都帝国大学の梅原末治を踏襲し、乗り越える形で、古い時期の古墳・奈良時代の墳墓研究を行った。

第2期は「アンチ高橋健自」を意識しながら、考古学研究会を組織し、渡仏するまでの間で、弥生時代研究、そして現在の考古学では「常識」となっている考古学資料の取り扱い方法だった。つまり行政区画ではなく、出土した土器の特徴や広がりを押さえ、「地域」を特定すること、更には、航空写真を利用することだった。

第3期は、日本に戻ってから死ぬまでの間で、弥生時代に農業が始まったということだけではなく、社会的に支配的であり、そして社会現象をも支配した。すなわち、弥生時代は農業社会であるとする、農耕論だった。森本の主張は、当時の考古学界からは黙殺されていたが、東京帝国大学の佐々木彦一郎をはじめとする地理学・民族学・人類学者から、多くの賛同を得ることになった。

また、「考古学の7つ道具」として、今では当たり前に存在するのものだが、(1)考古学史(2)考古学地名表(3)考古学地図(4)考古学文献索引(5)考古学辞典(6)考古学集成図録(7)考古学地方誌の重要性を挙げ、自身で『考古学辞典』の執筆を開始したものの、完成させることはできなかった。

森本が亡くなった年の12月、国道15号線新設工事の際、偶然にも、唐古池から疵ひとつない土器、笊・筵、石でできた匙や柄杓が出土した。それは今までに前例がなかった弥生時代につくられた木器だったのだ。それらの発見を加え、森本の後をつぐ形で、昭和13(1938)年に東京考古学会の手により、『弥生式土器聚成図録』が出版された。森本が代用教員時代に見つけた唐古池の土器に付着していた「籾」が、時を経て、まさに芽吹いたと言っても過言ではないだろう。

森本六爾が遺したものは「皮」と「名」のどちらだったのだろうか

森本が「遺したもの」は何だろうか。

森本自身が見い出し、書き記したこと。森本の愛弟子であった小林行雄・藤森栄一・杉原荘介・丸茂武重・藤沢和夫ら、戦後の考古学界で活躍した人物たち。今となっては当たり前の、弥生時代に農耕が行われていたこと。中国・漢代の青銅器文化の東アジア地域への拡散。そして航空写真の利用や、遺物の分布によって「地域」を特定すること、「考古学の7つ道具」など、考古学における調査手法。学位を有する「学者先生」ばかりではなく、アマチュアの考古学マニアによる地域の遺跡や遺物の調査・研究活動。更には「森本六爾」的な粘着質かつ冷酷な人物を中心に据え、社会派の推理小説を多く残し、高度経済成長以降の日本人から広く支持された松本清張。

果たしてこれらは「皮」か、「名」か。ただ言えることは、森本が残した「もの」は、松本清張が書き記した、「3枚の自分の写真」、「その専攻の考古学に関する論文を集めた2冊の著書」、「埃をかぶったマジョリカ焼きの茶碗」、「菊判4冊分の切抜き」だけではなかったということだ。

「人間、プロセスなんてどうでもいい、結果が全て」と言い切る人は少なくない。確かに森本は、押しが強く、周囲を慮る気持ちに欠けた性格が災いしたことから、自ら敵を作ってしまい、自身の拠り所だった考古学界に受け入れられることなく、32歳の若さで亡くなることになってしまった。森本は言うまでもなく、考古学に限らず、多くの「学者」に与えられる博士号などの学位、大学や博物館の中に自身の研究室・チームを持つこと、学会で華やかに顕彰されることなどといった「結果」は何も残してはいない。しかし彼が生きた短いプロセスの中で、多くの「皮」や「名」を残している。

最後に…

もちろん、森本のように何らかの「もの」を残せなかった人は、価値がないというわけではない。人が生きて死ぬ、その時間の経過の中、全ての人は何らかの「業績」がある無しにかかわらず、何らかの「もの」、ちょっとした言葉や態度などに見える「その人らしさ」を周囲に残し、時に影響を与えてさえいるのだ。それはもしかしたら、自分では気づかないことが多いだろう。従って、たとえ森本のように、傍目には、「みずから恃む才能の保証を、反世俗的、非功利的とみなされる学芸の世界にみいだそう」とし、それが叶わず、「現世のコンプレックスの呪縛からのがれることができないまま」日々を生きているとしても、それを恥じ、何とかしようともがいてしまう、または無気力になってしまっている自分自身をも否定する必要はないと筆者は考える。

必ずどこかに、何らかの小さな「救い」や「幸せ」は存在する。自分が理解されないことで、世の中全てを呪った、言葉通りの孤独な生涯を森本が送っていなかったからこそ、多くの「皮」や「名」を後世に残すことができたのだ。

我々も、同じである。森本にとっての妻・ミツギや三宅米吉、藤森栄一などの愛弟子にあたる人物、あるいは「逃げ道」に、目に見える/見えない形で支えられているからこそ、今を生きることができているのだから。

参考文献:或る「小倉日記」伝 、 二粒の籾、 考古学の殉教者―森本六爾の人と学績、 日本の古墳墓、 日本農耕文化の起原―考古学上より見たる日本原始農業の研究、 新編日本古典文学全集 (51) 十訓抄

ライター

鳥飼かおる

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