先日、お葬式に出席してきたという知人が「棺にお花を供える要領で、紙コップに入ったお酒を並べてたの。珍しいわね」と言っていた。恐らく故人が生前酒飲みであったのだと推測はされる。確かに液体をご遺体の周りに並べるというのは、あまり聞いたことはない。だが、人間はそれぞれに違う。顔形も、生き方も、好きなものも。となると、その人の『生きた証』というものを棺に納めるのだとしたら、それはそれぞれの個性を象徴するものになるのは、当然ではないだろうか。
生きてきた証 その人を象徴するもの
ずっと社交ダンスを続けていた年配の女性が、真っ赤な衣装を着せてもらい、棺に収められた。艶やかな死に化粧が映えて、とても美しかった。
またある人は、とにかく信心深いということから、知人の書道家に写経を依頼し、大きな和紙に金文字で般若心経を書いてもらった。書道家は突然のことで、大慌てでお葬式の前日寝ずにそれを仕上げたそうだ。大きな和紙はご遺体の上からすっぽりと被せてもらっていて、それは見事だった。ただ、その見事な写経はご遺体と共に焼かれてしまったので、何だか少し勿体ない気がした。俗世の人間の考え方の、まことあさましいものよ。
これらは全て、本人が希望したことかどうかは分からない。結局、遺された者の手によってそれは行われるからである。見ようによっては、遺した者たちに、生前どう接してきたかということが分かる物差しであるかも知れない。なんにせよ、燃える切るもので、常識範囲内のものであれば何を入れてもいいようである。
太田垣蓮月の辞世の句
「願はくはのちの蓮の花のうへにくもらぬ月をみるよしもがな」
(願いが叶うのならば、あの世では、蓮の花の上で、曇らない月を見ていたいのです)
これは江戸中期から明治維新という激動の時代に生きた女性、太田垣蓮月が詠んだ辞世の句である。
可憐で美しく、それでいてしなやかで芯の通った蓮月は、その波乱の人生を生き抜いたたくましい女性だった。蓮月は、自分が産んだ子どもには次々と先立たれてしまい、辛く悲しい思いを幾度も経験したが、ある縁により、我が子のように育てた男児がいた。それが富岡鉄斎である。蓮月が亡くなったおり、亡き骸を包むために、かねてから用意しておいた白い風呂敷にこの歌を自ら書き遺したのだが、その鉄斎が、蓮月に頼まれて描いたという、月と蓮の画がその歌に添えられていた。
鉄斎は蓮月に依頼されたときに、よもやこれが死に装束の代わりになろうとは、思いもよらなかったであろう。ただ、蓮月のその人生がどれほど過酷であったかは計り知れない。この歌は蓮月らしい、上品で可憐な調べで仕上げてあり、それがより一層切なくなってくる。
身体を単なる生命の入れ物と見ずに、それこそが生きてきた証そのものと考えると…
亡骸は魂が抜ければ、ただの入れ物に過ぎないように思うが、されど、その入れ物こそが生きてきた証そのものなのだとすれば、出来れば誰の演出だとしても、華やかに送ってあげるのも悪くはない。
ちなみに私は今のところ、自分の容姿については横に置いて、かわいいパステルカラーの色とりどりの花で一杯にしてもらいたい。ということは、最近は花も季節感がなくなってきたとはいえ、出来れば春頃に逝くのが、家族思いということになるのだろうか。