女王陛下の諜報機関、MI6に属する007ことジェームズ・ボンドの八面六臂の活躍を描いた小説、『007は二度死ぬ(You Only Live Twice)』(1964年)の冒頭、そして文中に、松尾芭蕉にちなんだ英詩が登場する。
You only live twice:
Once when you are born
And once when you look death in the face
After BASHO
Japanese poet,
1643-94
人は死に直面したときに、「二度生きる」ことになるのか
妻を殺され、そして諜報活動の失敗により、心身ともに大打撃を受けていたボンドは、彼を気づかう上司のMによって、日本に赴くことを命じられる。そこで彼は福岡の炭坑夫・轟太郎に化け、妻の仇、そして命がけの任務を遂行した。そうしたボンドの復活と大活躍に、「二度死ぬ」、ならぬ、「二度生きる」という詩の意味が反映されている。果たして人は死に直面したときに、「二度生きる」ことになるのだろうか。
児童文学者の松井友は『昔話の死と誕生』(1988年)の中で、「人間にとって、死の世界を通り抜けるという体験は、おおいなる開放の体験であるようです。死は、確かに、最初は悲しみであり、孤独の体験ではあるのですが、それを抜けると偉大な輝く平安の中に包まれて、この世に再びもどったときは、すっかり人生観が変ってしまう。そのような体験であるようです」と述べている。
このことは、フレミングの詩が言う、死に直面した時に人が、「二度生きる」ことを言い表しているように思われる。しかし人は、失意や生命の危機の後に、必ずしも目ざましい成果を上げたり、成功を遂げることがなくても、結果的に「二度生きる」羽目になる場合もある。
「はなたれ小僧さま」から考える二度目の人生
カトリックのシスターで、日本の昔話研究に造詣が深い増田早苗は、山間部の肥後玉名郡真弓(現・熊本県玉名郡南関町)に伝わる、「はなたれ小僧さま」を挙げ、人生の半ばを過ぎ、自ら思い定めていた目標に達したときに萌すむなしさ、或いは、仕事の失敗や人間関係のもつれによる失望や寂しさ、更には、平均寿命が短く、「第一の人生」を終えた頃に亡くなってしまった時代にはあまり問題にはなって来なかったが、高齢化社会の現在、重要なものとなってきた、「第二の人生」について論じている。
増田が取り上げた「はなたれ小僧さま」とは、山中で薪を取り、町でそれを売りながら生きてきたジジにまつわる話である。
あるとき、ジジの薪は全く売れなかった。疲れ果てたジジは、川の真ん中を流れる橋の上から薪を投げ、龍神様に祈って、家に帰ろうとしていた。そんなとき、幼い子どもを抱いた美しい女性が現れた。女性が言うには、龍神様はジジの日々のまじめな様子、そして薪を差し上げたことを喜んでいる。そしてその褒美に、願い事を何でも叶えてくれる子ども・はなたれ小僧さまをお預けになる。小僧さまには毎日3度、えびのなますをお供えしなければならないという。さっそくジジは小僧さまを神棚に据え、大切に拝みながら、米やお小遣いをねだった。すると小僧さまは鼻をふうんとかむような音を立て、ジジの願うものを出してくれた。古く汚れた家もきれいにしてくれた。いつしかジジは大金持ちとなり、山へ薪を取りに行き、それを売り歩かなくてもよくなった。ジジがすることはただ、町へ毎日えびを買いに行き、朝昼晩のなますを作るだけになった。ジジはたったそれだけのことがだんだん面倒になり、とうとうはなたれ小僧さまを神棚から下ろし、「もう何もいりません。龍宮にお帰り下さい」と言うに至った。小僧さまは外へ出ていき、しばらく家のまわりで、すうっと鼻をすするような音を立てていた。すると、それまであった立派な家も、家の中にあったものも次々となくなり、気づいたらジジの家は、元のあばら屋に戻ってしまった。大変なことをしたと気づいたジジは、小僧さまを呼び戻そうと家から飛び出したが、小僧さまの姿はどこにもなかった。
二度ならぬ、三度いきる
ジジが老体にむち打ち、重い薪を背負い、歩き回っていたにもかかわらず、全く売れなかった。そして疲れ果てて橋の上から川に薪を投げ入れ、龍神様に祈ったとき、ジジは「死」同様の、切羽詰まった状況にあったことは言うまでもない。そこで救いの手が龍神様よりもたらされた。ジジは長年の人生の中で考えてもみなかった恵まれた環境の中で、貧しかった頃に有していた謙虚な心がけを失い、かつて行っていたことよりもはるかに楽な、えびのなます作りさえ億劫になり、自分に恵みをもたらしてくれたはなたれ小僧さまが「いらないもの」になってしまったことで、手に入れた豊かな環境を失うこととなる。その結果、「二度目の生」を存分に生きることが叶わなくなってしまった。
昔話はジジの幸せが「終わった」瞬間で話は終わっているが、そこでジジが、あっけなく消え失せる物質的な豊かさではなく、ジジ自身のすばらしさ、すなわち、貧しい自分の境遇に不平不満を漏らし、仕事を投げ出すことなく、長年辛い仕事を続けることができた辛抱強さに気づき、それを今まで以上に大事にしながら生き続けることを決意したなら、「二度」ならぬ、「三度生きる」可能性を示唆してもいる。
最期に…
人間は必ずしも強く、そして清らかな心をもつことはできない。貧しい暮らしが長かったとしたら、急に与えられた豊かさに目がくらみ、自分自身を失い、自分を助けてくれた存在への感謝の気持ちを忘れてしまう。しかしそうなることもまた、人間の真実である。
とはいえ筆者としては、ジジがその後、わずかな期間の栄耀栄華に後悔の溜息をつき、魂が抜けたようになりながら生き続けたり、または、橋の上から龍神様やはなたれ小僧さまに毒づいたり、与えてくれた豊かな日々を懇願するのではなく、ジジが自分自身の人生そのものを取り戻し、再び登り慣れた山に薪取りに出かけ、町で売り歩きながら、いつものように仕事を終えて戻った夜の暖かい布団の中で眠りにつき、そのまま天寿を全うして欲しいと思う。たぶんジジのことだから、そうなったはずだ。