プロテスタント系キリスト教の宗派の一つである日本救世軍の、大正〜昭和戦前期の主要人物の一人であった山室軍平は、亡くなった時に、当時はまだ珍しかった自主献体を行った。
ところで、日本で初めて自主献体を行なったのは、吉原遊郭の女性で、梅毒のために1869年に亡くなった「美幾」だとされる。
当時吉原遊女が葬られることの多かった浄土宗ではなく、浄土真宗の寺院に美幾は葬られた
彼女は亡くなるに臨み、医学校(現在の東京大学医学部)に、自主的に(恐らくは、主治医に促された可能性が高いとはいえ)献体を志願し叶えられた。また日本救世軍は、遊郭の女性が自分の意志で遊郭を辞め、他の仕事で社会的自立するのを助ける、いわゆる廃娼運動を推し進めたことでも有名である。山室が献体を志願した理由は、幾つか考えられるが、一つには美幾の例も念頭に置いた、虐げられている遊郭の女性の苦難を分かち合う意味もあったに違いない。
なお、美幾は「吉原遊女としての死」を遂げた多くの女性とは異なり、彼女らがいわゆる「投げ込み寺の無縁仏(ほぼ身元不明であるかに扱われた死者)」として葬られた、三ノ輪の浄閑寺には葬られなかった。彼女は「自主献体をした功」により、「非無縁仏」として、文京区の白山にある念速寺に埋葬された。
無縁仏にならなかったのは浄土真宗であることも少なからず影響していた
興味深いのは、この念速寺が浄土真宗の寺院であったことである。吉原遊女としての契約期間が明ける前に亡くなった大多数の女性は、先述のように浄閑寺に葬られたが、ここは浄土宗の寺院であった。
美幾の墓を建てるのに尽力したのは、医学校の教師でもあった主治医たちであったようだ。つまり、彼女に「尊厳ある葬送」を行うのに、まず率先して尽くしたのは、仏教関係者ではなかったわけである。美幾の主治医たちが、医学校にある程度近い地域の寺院に、彼女を「非無縁仏」として弔ってくれるかを何軒か当たってみて、「非無縁仏」としての受け入れを承諾した念速寺に、葬送を依頼した可能性が高い。
念速寺が美幾を「非無縁仏」として弔うことを承諾したのは、恐らく、ここが浄土真宗の寺院であったからという点も、大きいに違いない。
浄土真宗では死について、穢れの概念を持たない傾向が強い
浄土真宗では、人間は元来罪深く愚かであるため、仏教信者として守るべきとされる戒律を、きちんと守り通すことはできないとされる。そのため、いわゆる戒名を、浄土真宗では「法名」と呼ぶ。しかしながら、いわば絶対神である阿弥陀如来は、そうした罪深い人間こそを救うのだ、とする信仰がある。
また、浄土真宗では他の宗派に比べ、「穢れ」概念を持たない傾向が強い。例えば今でも、葬儀に参列した人々に、いわゆる清め塩を配らないことが多いが、これは浄土真宗では、人の死は基本的に「穢れ」ではないとされるからである。
こうした信仰があるということも、「罪深く、且つ穢れた存在である」とみなされていた、性的産業に携わる女性であった美幾に対して、「救いに与る価値のある人間」としての「尊厳ある弔い」を行うことができた、理由の一つであろう。勿論、だからといって、浄土真宗が他の宗教宗派よりも優れているとみなし、他の宗教宗派を見下すのは、厳に慎むべきであるが。
参考文献:吉屋信子全集〈12〉、 いれずみの文化誌、 仏事Q&A 浄土真宗本願寺派