自分の愛する人が眠る墓の周囲に植物を植えるとしたら、我々は何を植えるだろうか。その人が生前好んだ花なのか、または、自分自身の心を慰めてくれるものなのか。
平安時代末期に成立したとされる仏教説話集『今昔物語集』の巻31、第27「兄弟二人殖萱草紫菀語(兄弟二人、萱草と紫菀を植える語)」に、墓の周囲に植える植物の話が語られているので紹介する。
嬉しい思い出には忘れな草 悲しい思い出には忘れ草
ある兄弟の父親が亡くなった。何年たっても、ふたりはその悲しみを忘れることができなかった。常に一緒に墓参に行き、歎き悲しみ合っていた。その後ふたりは朝廷に仕え、忙しい日々を送るようになった。
兄は父を失った悲しみが堪え難かったため、墓のそばに、嫌なことを忘れさせてくれる忘れ草こと、萱草(カンゾウ)を植えることにした。一方の弟は父の死を忘れられず、かつてのように兄を墓参に誘うが、忙しい兄だったため、都合がつかず、一緒に行くことがなくなってしまった。兄のそぶりを歎き悲しんだ弟は、父を失った悲しみを絶対忘れないために、墓の周囲に、物事を忘れさせないという紫菀(シオン)を植えた。墓参のたびに紫菀を常に見ていた弟は、父のことを決して忘れなかった。
あるとき、いつものように弟が墓を訪れていたところ、墓の中から突然、声がした。声の主は父親の屍を守る鬼だった。鬼は弟が父を思う気持ちに深く心打たれたと言い、弟に起こるいいこと悪いこと全てを毎日、夢の中で知らせてやろうと約束した。それ以後弟は、その日に起こること全てをあらかじめ知ることができるようになったという。話の結論として、嬉しいことがある人は、物事を忘れさせない紫菀を、憂いがある人は忘れ草の萱草を植えて、常に見るべきであると勧めている。
ユリ科の植物 忘れ草こと萱草
ここで登場する「忘れ草」こと萱草は、ユリ科の植物である。八重咲きのヤブカンゾウと、一重咲きのノカンゾウの2種類があり、いずれも「忘れ草」を指している。夏に黄橙色の花を咲かせる。いずれのカンゾウも、春に芽吹く若芽はおひたしや和え物に、花やつぼみは天ぷらや佃煮に利用できるという。
中国の詩文集『文選』巻31の潘岳の詩、「述哀」の中に、「消憂非萱草永懐夢寐」と、萱草を植えて亡き妻を忘れようとしたが、全く効き目がなかった。夢の中でも構わないので、ぜひとも逢いたいと思う気持ちが前よりも強くなったと表現されている。
日本においては、7世紀後半から8世紀に成立したとされる『万葉集』巻3、334において、太宰府(現・福岡県太宰府市)の長官だった大伴旅人がふるさとの香具山を思い、「萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 忘之為(萱草 吾が紐につく 香具山の ふりにし里を忘れむが為)」と詠んだものが古典文学上の初出である。
ムラサキ科の植物 忘れな草こと紫苑
一方の「紫菀」は、平安時代初期に成立した『古今和歌集』巻10、441、詠み人知らずに、「ふりはへて いざふるさとの 花みんと こしをにほひぞ うつろひにける」と「来し」と「しをに(紫菀)」、「しをに」と「匂ひ」とを掛詞にして、歌っている。
この歌が詠まれた頃までに、紫菀は中国から薬として伝わっていたという。煎じた根は、鎮咳・去痰・利尿に効果があるとして、当時の人々に広く用いられていた。「忘れな草」と見なされたことの根拠として、漢の武帝が夫人の死後、その死を悼んで焚いた香・返魂香(はんごんこう)の煙の中に、その面影が現れたという話にちなみ、中国では紫菀を「返魂草(はんごんそう)」と呼んでいたことが挙げられるという説もある。
貴方が逆の立場なら墓には「忘れ草と忘れな草」のどちらを植えて欲しい?
これらの植物の「忘れ草」、「忘れな草」としての実際上の効能は不明である。単なる詩的表現に過ぎないのかもしれない。しかし、あまたある植物の中で、何故「萱草」が「忘れ草」になり、「紫菀」が「忘れな草」として受け止められてきたのだろうか。
萱草は生命力旺盛な濃いオレンジ色の花を咲かせるが、紫菀は薄紫色の清楚な花である。見た目の印象だけではなく、何らかの理由があったとも考えられるが、今となっては知る由もない。ただ言えることは当時の人々は、自分たちのそばに咲いている花々に対して、超自然的なことに対する感覚が鈍麻し、合理的なものの考え方に慣れてしまっている現代人が思いもつかないほどの鋭敏な感受性を持っていた。彼らが花々を眺め、手に取り、時に身につけた際、何らかの「パワー」を得ていたことは間違いないだろう。
文頭の問いとは逆に、我々は自分の墓のそばに、残された人々から、どんな植物を植えてもらいたいだろうか。彼らが死の悲しみから早く立ち直ることができるよう、萱草なのか。それとも、いつまでも覚えていてもらうために、紫菀だろうか。
参考文献:古典植物辞典、 萬葉集釋注二、 萬葉集全歌講義〈2〉、 日本の消えゆく植物たち、 知っ得 古典文学植物誌、 今昔物語集 下 (覆刻日本古典全集)、 恋の万葉集 (高岡市万葉歴史館論集)、 萬葉植物歌考、 万葉の花 四季の花々と歌に親しむ