現在、日本では人が亡くなると、遺体を洗い清める「湯灌」を行うことがある。記録が残り、またその時代としては高級とされる葬法を行う上流層の人々に限っていえば、平安時代には既に行われていた。当時の表現では、「沐浴」と呼ばれた。ところが、その沐浴を拒否して、その通りに葬られた天皇がいた。その天皇とは、平安時代後期の鳥羽天皇(但し亡くなった時には退位しており、更に出家していたため、これ以降は「鳥羽法皇」と書く)である。
沐浴を拒否したこと以外にも変わった点があった鳥羽天皇の葬儀
鳥羽法皇は1156年に亡くなった。彼は亡くなる前に、自分の葬儀の際には、沐浴だけでなく供膳(現代でいう「枕飯」)や、穢れを払う紙人形(当時の貴人の葬儀では、これがつきものとされた)は出さないよう命じた。
そして、自分の遺体を納棺したら、野草衣(「いれかたびら」と読む。梵字や経文の書かれた着物で「経帷子」の名前のルーツとされる)で覆い、土葬するよう命じた。
そして葬儀の際に、法皇の命令はスムーズに実行された。納棺の際、法皇の遺体がそれまで着ていた着物を脱がせて死装束を着せるのではなく、着物を脱がせずに先述の野草衣で遺体を覆った。
裸を見られることを嫌がった鳥羽天皇
鳥羽法皇が、当時としては大変高級な葬法であり、また高位の人々の間では盛んだった火葬ではなく土葬を選択したことは興味深く、追々取り上げてみたいとも思う。しかしそれ以上に、彼の沐浴拒否については興味深い点がある。
記録で、「遺体が今まで着ていた着物を脱がせない」ことが強調されていることが、特に興味深い。どうやら鳥羽法皇は、「沐浴」が嫌だったというよりは、例え遺体であっても、自分の「裸」を見られたくなかったために、沐浴を断固拒否したようである。
天皇・上皇・法皇が亡くなった際には、遺体は沐浴されるのが一般的であった。その際には、当然亡くなった時に着ていた着物を脱がせるわけであるが、例え天皇の遺体であっても、それは決してタブーではなかった。実際、それ以前には、遺体処置を行う人々に遺体となった自分の裸を見られるのを、恥ずかしがったり嫌がったりした天皇は、筆者の知る限りでは、鳥羽法皇以外にはいなかった。
何故嫌がったのかは不明
鳥羽法皇がなぜ、遺体となった自分の裸を見られるのを、他の天皇が何とも思わなかったにも関わらず、強く拒否したのかの理由は、記録がないので結局彼自身にしかわからない。ただ、中世の貴人たちは、自分の遺体を、着物をきちんと着た状態であっても、自分より身分の低い人々に見られることを、大変な恥であると考えていた。それとの関連も、全くないとはいえないだろう。
しかし先述したように、死後に沐浴で自分の遺体が全裸にされることは、「自分より身分の低い人々に遺体を見られる恥」には、一般に該当しなかった。
このことも念頭に置くと、鳥羽法皇が嫌がったのは、「自分の裸そのもの」を見られることだったのか、「遺体となった自分の裸」を見られることだったのかはわからない。ただこのことは、「死者の性的な尊厳」について、考えるきっかけではあるだろう。
参考文献:天皇と葬儀―日本人の死生観―