海洋散骨が、一般的になってきているらしい。
魚じゃないのだから「人間の骨」を簡単に海に撒けるはずはない、海に撒けたとしても随分と沖まで出なくてはならないのだろうと思っていた。ところがいくつか海洋散骨に関する情報では、東京近郊で、東京湾や湘南沖の5か所ほどで散骨が可能となっていた。随分と手軽である。
ちなみに海洋散骨のメリットに「将来的に墓所などの維持費用がかかりません」というのがあった。生前に本人が死後の経費軽減のため散骨を希望したとしても、それは埋葬ではなく、考え方次第では廃棄になってしまわないだろうか。
散骨は埋葬方法のうちの一つ
海に骨を撒くという行為自体は社会的に認知されてきているが、それは埋葬の代替行為としての理解であり、経済的な理由だけで海に撒くのはいかがなものだろうか。
ちなみに骨ではなく生身の人間を捨てる話が「姥捨て山」である。この物語は親子の情愛の話ではない。寒村の集落維持の話である。経済的な問題でどこかの家が崩壊すると、共同体としての集落に問題が及ぶため、制度として口減らしを行ったのである。個々の家の問題に見えても、共同体の問題なのである。親子は共同体の一員としての義務で「姥捨て」に応じるのである。
社会的強制のない状態で、経済的な理由「のみ」で散骨を行うのは倫理的にどうだろうか。故人がそうしたいと望んだのであれば、遺族も「故人の我儘を叶える。」ということで散骨を理解できるが、そのような前提すらなかった場合はやはり首をかしげてしまう…。
ただ単に「安い」からという理由のみで散骨を希望するのはどうだろうか
人の行為の真意を外から判断するのは難しい。「なぜそれを行うのか」という動機は非常に大切なことである。犯罪行為を追及する際、動機が重視されるのは当然である。
同じ行為であったとしても、動機が異なれば、その事情は考慮される。例えば犯罪であれば、故意か偶然かで負うべき責任が少々変わる。散骨も故人の希望であれば埋葬だろう。しかし経済的な理由からだけであれば廃棄に近い行為とならないだろうか。
埋葬は故人を送るための儀式だ。去り逝く人には気持ちよく「最後の我儘」を言ってほしい。送る側としても、それにできる限り誠実に応えていきたい。