清朝後期の1850〜1864年に江南地方を中心に起こり、南京を本拠地とした「太平天国の乱」の際には、王朝時代の中国としては極めて特殊な葬儀習俗が行われた。
ちなみに「太平天国の乱」とは、当時の被抑圧層の人々を多く含む、ある種の平等思想を掲げた秘密結社による武装蜂起である。
太平天国で実際に施行された棺禁止令
民衆の支持を得ることで急激に勢力を拡大していった太平天国軍は、南京を制圧してそこを本拠地と定め、ユートピア思想の実現を目指し独自の法を定めていったのだが、その中に「身分や男女・年齢を問わず、亡くなったら棺を使わず遺体は布団や毛布に包んで埋葬すること」というものがある。
これを徹底するため、棺を準備している家があったらその棺を叩き壊すなどしたほどである。そして、太平天国が清朝軍によって滅ぼされる直前に、トップの洪秀全が亡くなった際も、彼の遺体は棺に入れられず埋葬された。
ただ結局、この「棺禁止令」だけは他の法と異なり、どうしても民衆の支持を集められなかったという。「棺禁止令」が嫌われた理由は、一つには、「親のために棺を用意するのは親孝行である」という当時の常識が、太平天国の一般大衆メンバーにも強く根付いていたからである。
棺禁止令が何故出来たのか?!
この「棺禁止令」が出された背景には、太平天国が一種の平等思想をスローガンとしていたことに理由がある。南京を制圧する前までは、拠点といえる土地がなく、そこに至る過程で太平天国の主要指導者が2人も戦死しており、彼らの葬儀を落ち着いてできなかった悔しさと「棺禁止令」が無関係とは少々考え難い。
更に言うと、太平天国の要人たちが影響を受けたのが、カトリックや正教会ではなくプロテスタントの一派であったことも、無視はできない。プロテスタント諸派は、一般にカトリックや正教会に比べると、遺体が腐敗・火葬などで原形を失うことに、割と古い時代から抵抗が少ない。