平安時代には、例え天皇や上流貴族であっても、墓参りの習慣はなく、故人を供養する仏事は全て菩提寺や遺族の邸宅で行われた。そういったこともあり、そうした貴人の墓は、基本的に遺体・遺骨が埋葬されてからは、荒廃するに任せていた。
そして江戸時代には、平安時代半ば頃までの天皇の墓については、だれがどこの墓に葬られたのかが不明確になっていた。
明月記に記された持統天皇のお墓の盗掘
現在「天皇の墓」とされている古代から中世の天皇の墓の多くは、幕末から明治初期に整備されたものである。そしてそうした墓は、整備する際に、様々な古記録から推定して「ここはどの天皇の墓だろう」と決められていった。
そうした古代から中世の天皇の墓に関する古い記録の中に、飛鳥時代の天皇の墓が鎌倉時代に盗掘されたという記録がある。
その記録は、王朝時代の偉大な歌人であり、また小倉百人一首の選者でもある藤原定家が残した日記『明月記』の中にある。なお、墓を盗掘された天皇も、偶然にも小倉百人一首の歌人の一人である。
捨てられた遺骨を探そうとしなかったという驚きの事実!
その記録によると、1235年の3月に、飛鳥時代の天武天皇と彼の皇后であった持統天皇の墓(両天皇は一つの墓に埋葬された)が盗掘された。その2〜3ヶ月後に、盗掘の犯人は捕らえられたという。
犯人の狙いは様々な副葬品、特に持統天皇の遺骨を納めた銀の骨壺であった。更に言うと、銀の骨壺「本体」がそもそもの狙いであったので、犯人は遺骨を道端に遺棄してしまったという。なお補足すると、持統天皇は初めて火葬された天皇でもある。
ここで筆者が注目すべきと思う点は、「天皇の墓が盗掘されたこと」よりも、「天皇の遺骨が道端に遺棄されたことを当局が知っても、その遺骨が捜索されなかったこと」である。そして記録者の藤原定家も、遺骨が捜索されないこと自体に対しては、全く気に掛けていなかったようである。
遺骨に対してのこだわりが薄かった
このことは、当時の日本、特に政治経済や文化の中心地であった近畿地方では、「故人の遺体や遺骨へのこだわり」が、極めて希薄であったことを意味する。過去の時代の人物の遺骨へのこだわりに至っては、「極めて希薄」どころか、ほぼ皆無と言ってもよいほどである。遺骨の主が大幅に過去の時代の天皇とはいえ、天皇の遺骨の扱いからしてこの通りであった。
また、この事件によって祟りがあったなどという話も、筆者の知る限りでは語られなかった。盗掘犯が捕らえられたことも、遺骨の主である亡き天皇の怒りとは、結び付けられなかったようである。
「日本人は故人の遺体や遺骨にこだわる傾向がある」とよくいう。しかし、それは決して過去から一貫して続いてきた傾向ではないということを、この事件の記録は雄弁に証明している。
参考文献:天皇陵論 聖域か文化財か