中世(大体鎌倉時代〜戦国時代中期頃)の日本では、身分を問わず、故人の遺体や遺骨、墓などへのこだわりが現代と比べて、大分少なかった。
しかし一方では、様々な「聖地」への納骨も、この時期に盛んであった。ちなみに中世も半ばになると、中流階級の人々や、時には庶民も火葬されるようになった。このことも「聖地」への納骨ブームを後押しした。
宮城県の雄島には納骨遺跡がある!
そうした「聖地」の一つが、宮城県の松島湾に浮かぶ雄島である。
雄島には、多くの石碑が今も残されており、納骨の痕跡や、小さな破片となった中世の人骨が多く残っている。それだけでなく、近くの海中からは、何らかの理由で故意に沈められたと推定される大量の石碑が発見されている。但し、なぜ多くの石碑が海中に沈められたのか、また沈められた石碑と残された石碑の違いは何かなどについては、よくわかっていない。
雄島に納骨された遺骨の主が、どこのどのような人々だったのかについては不明である。石碑の銘の中にも、そうしたことがわかる手掛かりになりそうなものも、ないようである。ただ、周辺の住民ではないかという説があり、筆者もその可能性は極めて強いと考える。
和歌山県の高野山や岩手県の中尊寺金色堂も納骨の聖地だった
また、和歌山県にある真言宗の総本山高野山の「奥の院」(空海の墓所)も、そうした「納骨の聖地」の一つであった。平安時代末期から多くの人々が遺骨を納め、供養として参道に石塔を建てた。
こうした由緒ある寺院への納骨例も、割と多い。例えば、岩手県の平泉にある中尊寺金色堂もその一つである。奥州藤原氏が鎌倉幕府に滅ぼされた後も手厚く祀られ続けてきたのは、一つには奥州藤原氏滅亡後、ここが近隣の庶民層にとっての「納骨の聖地」となったからである。ちなみに中尊寺金色堂には、奥州藤原氏の歴代当主の遺体がミイラ化して納められていた。このことも、「納骨の聖地」になったことと無関係とは言えないだろう。
極楽浄土に導いてくれると信じられていた
このように、中世では故人の遺骨を「聖地」に納める、いわば納骨信仰も盛んであった。但しこの納骨信仰は、近現代日本的な「故人の遺骨へのこだわり」につながるものではない。雄島に建てられた石碑の銘に、ここに納骨された遺骨の主に関する情報がほとんどないのも、一つにはそのためである。
こうした「聖地への納骨」は、故人の魂がその「聖地」に留まることを期待するのではなかった。むしろ、その土地や寺院が帯びていると信じられている「聖なる力」によって、故人が「異世界としての死後の楽園」に飛び発っていけるという信仰のためであった。