僕は以前から「セレモニー」という言葉が気になっていた。車で街を走っていると、頻繁にセレモニーホールを見かける。
葬儀を行う場所だ。外観はまるで何かのパティーでも行うような装いだ。
人が亡くなるということは親族や友人にとっては、悲しい出来事意外の何でもないはずなのでは。なのにその最後のお別れとなる通夜や告別式は華やかにも見えるこのセレモニーホールで行う。
しかし不思議と不謹慎などとは思わない。結婚式という葬儀とは真逆に思える礼式でもセレモにーという言葉を使う。しかしその事に対して慨嘆している故人の親族などは聞いた事もないし見た事もない。
おそらく世界中、ほとんどの国で葬儀というのは盛大に行うものだと思う。僕も特に考えた事はなかった。
しかしつい半年ほど前、僕は葬儀を盛大に行う理由というのが少し解った気がした。小学生の時からの友人の父親が亡くなった時のことである。
少年野球のコーチの葬儀に参列
友人の父親は生前、少年野球のコーチをしていた。僕も友人もその少年野球チームに所属していた。友人にとっては親父がコーチだったわけだ。
コーチは練習の時は厳しく指導をし、練習が終わると表情が一変してニッコリ笑い、子供だった僕たちの話をニコニコしながらただ聞いていた。そんな印象が残っている。
そのコーチが亡くなったと聞いたのは別の友人からだった。その友人も少年野球に所属していた。きっと気を使わせないためにあえて大勢に告知しなかったのだろう。僕はそれを聞くと「参列したい」と言い、その友達と待ち合わせ、セレモにーホールに向かった。
式場には徐々に人が集まり始めていた。まず最初に目がいったのは友人の母親が号泣している姿だ。僕は側にいって軽い挨拶をし、「おばさん、平気?」と問うと「来てくれてありがとうね」と言って眼鏡をづらしハンカチで涙を拭いた。僕は友人の事が心配になった。周りを見回すと参列者にお辞儀をしながらなにか話している友人の姿を見つけた。
僕が近づいていくと向こうも僕に気がつきニッコリ微笑んだ。顔はどうゆうわけか爽やかな顔をしていた。
「来てくれたんだ、ありがとう」
爽やかにそういわれて言葉に詰まったが、その友人が意外な事を口にした
「いやぁ、葬式って楽しいね。」
「いやぁ、葬式って楽しいね。」
自分の父親が死んで悲しくないはずはない。ましてこの男は昔から情に厚く、正義感が強い男でそのせいかよく同級生と喧嘩をしていた。そんな友人がそう言っている。本当にそう思っているからであろう。不謹慎な感じなどは全くしなかった。僕は話を聞きたくなった。
通夜がお開きになり僕は会食に呼ばれた。豪華なパーティーのような食事が用意されていた。友人は率先して親族と思しき人達にあいさつをしながらビールを注いで回っていた。そして僕の隣に座りビールを注いでくれて、「献杯」と言うと自分もビールを飲み始めた。コップで3、4杯飲み干すと僕はさっきの友人の言葉の真意を聞いてみた。
話の中身はこうだった。
仕事後、同僚と飲みに行くことが一度もなかった父親
故人は生前、30年以上も造船所に努めていたのだが、驚くことに30年間一度たりとも外でお酒を飲んで帰ってきたことがないというのだ!
お酒が飲めないという訳ではない。サラリーマンだったら月に何度かは同僚達と酒を交わし酔っぱらって帰ってくるのが普通だと誰もが思うはず。
僕は半信半疑でテーブルの向かいに座っていた友人の母親にそれが本当がどうか聞いてみた。返答は本当だという事だった。
残業以外の日はきっちり6時半に帰ってきて晩酌をしている姿を見て友人も友人の母親も
この人は会社に仲の良い人間が一人もいないんだ。
そう決めつけていたそうだ。しかしこの通夜の夜、故人の職場の人達の参列者の数に驚いたという。そしてその友人は職場での父親の振る舞いや、その人の思う故人の人柄を大勢の人達から聞かされた。それは、友人も故人の妻でさえ知らなかった故人の人品であった。
友人と故人の妻は亡くなってから初めて自分の父、夫の一面を知ったのだ。友人は自分の知っている父親以外の父親を知る事ができて嬉しかったと言った。そしてその機会を与えてくれた葬儀という礼式が「楽しい」と思ったのだという。
死こそ最高のセレモニー
僕の知り合いのあるミュージシャンが「死こそ最高のセレモニー」と歌っていたのを友人の話を聞いて思い出した。
僕自信も大好きだった愛犬が死んだ時とても悲しかったが、生きていた時では到底考えそうもなかったその者の本質が初めて見えたような気がした。
「本質」とは「霊」とか「精神」とゆう事柄にも通づると僕は思っている。
つまり人、もしくは生き物は死んで初めて霊としてその者を知る他者の中で「生まれる」のではないか。
誕生と死は同等の価値があるのだ。人が生まれればどの国の人だって盛大に祝うはず。葬儀も同じことなのだ。
僕はそう解釈した。
僕は帰り際に改めて祭壇の前に行き、「コーチ、ありがとうございました」と唱え手を合わせた。写真の中のコーチの顔は子供だった僕らの話をニコニコと黙って聞いていたあの笑顔と同じだった。