埋葬方法といえば火葬、というのは現代では一般的となっているが、一昔前はそうではなかった。
様々な埋葬法が当時あったなかで、共通しているのは遺体の腐乱防止であった。しかし、火葬に対する強いマイナスイメージを持つ地域があり、遺体の腐乱を避けることと火葬への否定的な態度の両立は一見難しいように思える。
筆者は火葬に対して否定的な傾向が近現代まで残っていた、あるいは残っている地域には、様々な点で特徴のある地域が多いように思う。
土層でも十分白骨化し、かつ土に還すことが良いこととも考えられていた
例えば筆者の出身地である関東地方の利根川流域には、高齢者の間にはまだ火葬に否定的なイメージが強い傾向がある。実はこの地域には一つの特徴がある。それは「土葬したほうが、遺体がスムーズに白骨化しやすいこと」である。
関東地方の多くの地域の土は「関東ローム層」と呼ばれ、酸性度の高い日本列島の土壌の中でも、特に酸性度の高い土壌である。この土の中に埋葬された遺体は他の地域と比べても早く白骨化し、更には残った遺骨も土に還って最終的に遺体は跡形もなく消えてしまう。
このことを、この地域の住民は古くから経験によって知っており、またそのように早く遺体・遺骨が完全に土に還ることを良いことと考えていた。
遺骨にこだわる民族 日本人
なお補足すると、「日本人は遺骨にこだわる民族である」と言われている。
第二次世界大戦の際に、いわゆる南方戦線などで戦死した日本兵の遺骨の回収が盛んだったことや、火葬の際にも遺骨が完全に灰になるよりも遺骨の形が残ることを希望する人も少なくない。
だが、そうした「遺骨へのこだわりが強い日本人」像は決して太古の昔からのものではなく、近世〜近代の頃にそのような傾向が少しずつ育ってきたのであった。
九州北部では甕棺墓という埋葬が行われていた
一方、九州北部では近代になるまで、伝染病による死者を火葬ではなく甕棺(かめかん)で密閉埋葬して感染の拡大を防ぐ習慣があった。
明治から昭和戦前期に活躍した九州出身の詩人 北原白秋は、彼が幼少の頃あったこととして、伝染病による死者を甕棺で埋葬する様子を描いた「青き甕」という詩を書いている。
その詩からは、九州北部では伝染病で亡くなった人を甕棺による密閉埋葬で葬る習慣が近代に入っても続いていたことがうかがえる。
甕棺墓の起源は弥生時代?
九州北部と甕棺といえば、この地域には弥生時代の遺跡が多く、その中には甕棺を使った埋葬法の墓も少なくない。九州北部の弥生から古墳時代頃の甕棺についてはある程度歴史の本などで言及されることも多いが、それ以降の甕棺での埋葬の習慣は筆者の知る限りでは、きちんと研究されているとは余り言えない。
しかし筆者は、この甕棺で埋葬する習慣は伝染病で亡くなった場合など、特殊な事情による死者に限ってのことかも知れないが、九州北部では近代まで続いたのではないかと思う。白秋が幼い頃に見た甕棺による密閉埋葬も、弥生時代の甕棺にそもそものルーツがある可能性もある。
このように、火葬が日本全国で一般的になる前の日本では明治時代に入ってからも、一見同時代の日本国内同士とは思えないほどの異なる葬法があったことも知っておきたい。