「こういう時は、亡くなった人が集まらせてくれたんだ、って思う事にしてる」
いつだったか、学生時代の友人を亡くした筆者の母が、その友人の葬儀から帰宅後に言っていた言葉である。
通夜振舞いの後、久しぶりに会った一緒に参列した他の友人たちと、場所を変えて食事に行ったのだそうだ。
聞いた瞬間に良いなと感じた母の言葉
この言葉を聞いたとき、筆者は率直に「あ、そういうのいいな。」と思った。
「いいな」というよりは、そう考えた方が、なんとなく気持ちの整理をつけられるのではないかと思ったのだ。
また、通夜でたくさん涙を流した後に、故人の思い出話に花を咲かせる時間は心温まる時間なのではないかとも思う。
受け入れられるのであれば、それがどんな方法であっても良いのかもしれない
故人と最後のお別れをする場である葬儀には、親族だけでなく友人知人も参列することであろう。
抱える思いや、故人との思い出は参列者によってそれぞれ異なるはずだ。当然、気持ちの切り替え方だって万人に共通する方法はない。様々な参列者がいて、様々な方法があっていいのだ。
筆者の母の場合は、それが冒頭の方法だったのである。
「思うことにしてる」という言葉にも現れているが、これは筆者の母が勝手に思ったことである。
「俺がもし死んだら、葬儀の後は皆で飲めよ!」と故人が生前に話していた、などということではない。もしかしたら、その母の亡くなった友人はそんなことを望んではいなかったかもしれない。それでも、そう思うことでその死を受け入れられるのであれば、ためらうことなく「思うことに」してしまって構わないと筆者は考える。「勝手かもしれないけど、こう考えて頑張るね」という思いは故人を偲ぶことにも繋がるのではないだろうか。
大切な人が亡くなった時の死の受容方法を考えてみてはどうですか?
最後に筆者自身は、幸いなことに、友人の葬儀に参列したという経験は今のところは持っていない。
だが、病気や事故、そして死は年齢など関係なく誰の身にも振り掛かり得る。例えば、今、もし筆者が友人を亡くした場合――。その友人の葬儀後、母のように考えることが出来るだろうか。…正直なところ、あまり自信はない。もっと言えば、友人を亡くす、という場面を実感を伴って想像すること自体が難しかったというのが本音である。
歳を重ね、その当時の母と同じぐらいの年齢になったら、筆者もそのように考えることが出来るようになっているだろうか。あるいは、母と同じ考え方ではないとしても、筆者自身に適した「気持ちの切り替え方」を見つけられているだろうか。それがどんな方法なのかは筆者自身もわからないが、何か良い方法を見つけられているように祈っておこうと思う。