ここ数ヶ月の内に私に身に付いた習慣がある。毎週必ず近所のお寺にお参りすることだ。厳密に云うと、そのお寺を菩提寺とする、ある偉人のお墓参りが目的なのだ。
綺麗に掃除されたお墓
非常に知名度もある方なので、忘れ去られている風ではなく、いつも墓前は綺麗に掃除されている。
花も鮮やかな鮮度を保った状態であるし、線香も風に吹かれることなく燃え尽きた形をそのままに留めている。
参り始めた当初は感動の内に、その墓石に落ちる茶色く枯れた竹の葉にさえ、嬉々としてつまみ上げ、恍惚の眼で眺めたものだったが、今では感動はそのまま、落ち葉を掃くくらいのことは平然とするようになった。
手入れが行き届いたお墓とそうでないお墓
お墓参りに来た時、周りのお墓を気に掛けたことはあるだろうか。
大概のお墓はしっかりと手入れされ、人の参拝風景を容易に想像することができる場合が多い。しかし中には、墓石は苔むし雑草だらけ、花も枯れ果て、線香の残り灰も風に飛ばされ何処へやら。
お寺に入りながらも何やら”無縁仏”のようなお墓を時々見かけることがある。その光景を見ると何だか心が寒くなる思いである。仮にこれが自分の隣のお墓ならどうすればいいのだろうか。習慣であるいつもの参拝時のように掃き掃除をしようか、花も供えようかなど、お節介が頭を過るのである。果たして何が正しいのだろうか。
綺麗にしてあげる必要はない?
結果から述べると、基本的には”何もしない”が一般的。
そこには”お墓は家である”という考え方に因る所が大きいようだ。
お墓は家であるということを鑑みれば、なるほど確かに隣の家に勝手に上がりこみ、隅々まで掃除した上に好みの飲食物まで置いていくというのは、常識で考えてもおかしいはずであるし、お隣の立場としては何やら気味も悪い気がしてくる。何より、他家のお墓というのはそのお家の所有、またはお寺や霊園の所有となるので不法侵入に問われるかも、という声も散見される。親切心からの行いが法に触れようなどとは、プライバシーを重く見る時代故に当然といえば当然なのであろうか。
綺麗にしてあげるのもまたアリ
その一方で、隣はおろか、そのお寺に眠る無縁墓にも手を合わせる人がいるという話も聞くことができた。
自分達ももしかしたら誰も手を合わせに来てくれない寂しい無縁墓になるかもしれない。だからお互い様なのだ、と水を掛け、手を合わせるそうだ。宗教的に云えば、こういった行いが生前の”功徳を積む”ことになるのであろうか。しかし、無縁墓に気持ちばかりのお世話をして、手を合わせる。私には世話好きの、心優しい、実に日本人らしい美しい姿のように映る。
最後に…
現実的な側面と宗教的な側面。法律の側面と感情の側面。
お墓参りにも、一概に正否を問えない事情があるというのが現実のようだ。上でも述べたようにあくまで”何もしない”が一般的。しかし”隣の芝生は青く見える”ように隣のお墓に眠る人も’隣のお墓は綺麗に見える’かもしれない。
勝手な解釈ではあるが、そんな想いが聞こえそうになると、世話のひとつでも焼きたがる自分がいるのもまた、事実である。