私が実家に帰る度に楽しみにしていること、それは湯船にゆっくりと浸かることである。永らく一人暮らしをしていると、自分で湯船にお湯を張ることもなく、シャワーだけで味気のない入浴時間を過ごしてしまいがちなのだ。
お風呂に入ることが日常になっている日本人
そんな生活の中であって、足を投げ出して長々と湯船に浸かっていると、日々の疲れもたちまちと綺麗に流されていくものである。私たち日本人にとってお風呂に入ることは日常であり、至福の時でもある。そんなお風呂であるが最期の瞬間にも入ることをご存知だろうか。
一日の疲れを癒やすお風呂がある様に、亡くなった後にお風呂にはいるのも自然といえるかもしれません
故人を湯船に入れる儀式を湯灌(ゆかん)と呼ぶ。
この湯灌の儀式は一生を終えた故人を来世へと旅立たせるために、身体と共に生前の穢れも清めるために、また生への煩悩を洗い流す意味も込められているという。湯に浸かり、心も身体も洗い清めた後に来世への旅装束を着せて、故人を旅立たせる、それが湯灌の儀式である。人がその日の終わりに一風呂浴びるように、故人もまた人生の最期にお湯に浸かるのである。これは人として最後の日常的な行動といえるだろう。
湯灌の儀式を行うのは、何も故人の精神性のためだけではない。人は亡くなったその瞬間から身体の腐敗が始まっていく。それに伴い、異臭や出血などを極力防ぐ意味合いも含まれている。葬儀となれば、火葬されるその瞬間までの数日の間、その亡骸はお棺の中で眠っているのだ。その間にも上記した現象は故人の身に起きているのだ。そういった状況に置かれることは仕方のないことだとはいえ、遺族にとっても、何より故人にとっても不本意には違いない。湯灌の儀式とは遺族にとって故人を綺麗に、美しく見送るために。そして故人にとっては最期のその瞬間まで人としての尊厳を身にまとったまま来世へと旅立つ、その準備としてとても大切なものなのである。
「生き返る」や「極楽、極楽」など生を意味する言葉
人はこの世に生まれたその瞬間に湯に浸かる。それが産湯である。そしてこの世を去るその時にも湯に浸かる。それが湯灌である。
このように人の一生は湯に浸かることで始まり、湯に浸かることで終わるのである。現在では亡くなる人の多くが病院でその瞬間を迎えるため、アルコールで身体を拭くことで湯灌の儀式とするケースが多いそうである。身体のためには本来それだけで十分なのかもしれない。しかし、やはり出かける前には綺麗さっぱり身を清めたいというのが日本人であると思うし、それが人として最後の煩悩のような気がする。
お風呂に浸かった時に思わず漏れる台詞として有名なのが「生き返る」や「極楽、極楽」といった言葉だ。どちらも「生」を意味する言葉である。きっと故人も足を投げ出して、長々と湯船に浸かりながら、そんな台詞を漏らしているのかもしれない。