母方の祖母は90で亡くなったが、まだ元気な頃からじぶんの遺影を決めていた。まだ60代の頃の、ベストショット写真。早々に業者に作らせ部屋の額に飾っていたのには親戚一同大笑いだった。
しかし実際の葬儀では立派に役目を果たしていたように思う。カッチリした格好で無表情、が主流であった遺影も、現在ではさまざまに変化してきている。
プロのカメラマンによる遺影撮影サービス
たとえば、プロカメラマンによる遺影撮影会。メイク込みのサービスでモデル並の体験が出来るうえ、仕上がりは言うまでもない。
プロに撮ってもらうのには抵抗がある、という人には、自身が気に入っている写真をデータ化してWeb上に預け、葬儀のとき引きだしてもらい使用する、なんて現代らしいサービスも。デジタル加工技術が発達した現代では、写真のお顔をチョット加工修正したり、普段着から礼装に変えてしまうことも出来るからすごい。
近年、葬儀を行わず火葬のみの直葬というかたちも増えてきているが、そこでも遺影だけは用意されることが多いという。写真技術が発達する以前も、裕福な家では故人の肖像画を描いてもらって飾っていたくらいだから、日本人は、むかしから遺影を残したがる民族のようだ。
遺影が無い葬儀をイメージすると…
遺影を残すのは、故人を偲ぶため、というのが主な理由として一般的である。
遺影のない葬儀を想像してみよう。そこにじぶんが参列しているとして、参列しているくらいなのだからそれなりに親しい仲のはずなのだが、なんとなくお顔が浮かばない。誰の葬儀なのかわかっているはずなのに、遺影がないだけでまるで心もとなくなってくる。
わたしたちが親しくしていたのは、棺に横たわるご遺体ではなく、生前の、生きていたときの故人である。生前の故人が遺影という形でも同じ場に居れば、わたしたちのなかにある故人との記憶はそこからたやすく結びつき、それが物言わぬ目の前の故人への悲しみにつながるのではないだろうか。
儀式で礼装するのが決まりのように、遺影もとびきりの自分を残すべきではないでしょうか
もう一つ、葬儀は儀式である。
人は「式」では礼装をするのが決まりだ。じぶんが主役になる儀式では、結婚式同様、とびきりのじぶんでありたいもの。霊的なはなしではなく、故人は遺影写真のなかで生きていて、そして、じぶんの葬儀をちゃんと見ているのかもしれない。
ただ、余談だが、地域によっては火葬の後に葬儀を行うところがあり、その場合、遺影がないとほんとうに誰なのかわからなくなってしまう、とのことだ。