今年は台風が多く発生した。例えば台風24号は、9月29日に沖縄付近を強い勢力で通過し、翌日には和歌山県に上陸し、近畿から東北を縦断し北海道まで進んだ。最大瞬間風速は鹿児島県で56.6メートル、降水量の最大値は宮崎県で96.6ミリと記録的な猛威を振るった。これによってJR四ツ谷駅の線路内に木が倒れる事故が起こった。撤去のため、東京新宿間はしばらく運行停止を余儀なくされ利用客に大きな打撃を与えた。
ところで、撤去されたあの木はどうなったのだろうか。東京の下町・台東区根岸には、「枯れた木」が大切に祀られている。その「枯れた木」とは、「お行の松」のことである。
お行の松が祀られている西蔵院境外仏堂不動堂とは
「お行の松」は、東京都台東区根岸4丁目の「お行の松不動尊」がある西蔵院境外仏堂不動堂内にある。
この不動堂は諸説あるが、「出羽国(でわのくに)湯殿山(ゆどのさん)の末寺大日坊の所在せし所なるが、常州(じょうしゅう)佐竹(さたけ)の一族岡田左衛門なる者が、先祖の由緒ある所ゆえにて、宝暦年中(1751〜64)、文覚(もんがく)聖人の手彫りの1寸8分の不動尊を石の唐櫃に納めて、これを松の下に埋め、その印にとして石の不動尊を置いた」とのこと。
そして文化3年の江戸大火の後、比丘尼の貞照がこの地の里人ならびに真言宗の福生院主(明治維新前後に廃寺)と力を合わせ、再び庵を結び、不動堂を建立した。その際、堂内に石像を安置し、土中の石櫃も掘り出して、この地に埋めたと言われている。
「お行の松」の名前の由来とは
そして「お行の松」の名前の由来だが、宝暦以降に呼ばれるようになったとのことで、それは、歴代輪王寺宮(りんのうじのみや。かつて存在した門跡のひとつで、上野の東叡山寛永寺に常住していた)がその在任中に1度、「御加行(ごけぎょう)」「御繞堂(ごぎょどう)」と言って、100日間、毎朝、種々の修法を行い、上野山内の寺社を巡拝した際、根岸の御隠殿(ごいんでん。慶応輪王寺宮の別邸)からこの松の下で必ず休まれたことから来ていると言われている。
現在の「お行の松」は四代目 歴代の「お行の松」
不動堂には、平成30年4月に、4代目のお行の松が植えられているが、初代の松は周囲4メートル余、高さ13メートル余の立派なものであったという。しかも『江戸名所図会』(天保3年刊)に紹介され、歌川広重の錦絵に描かれるほどの有名な松だった。
坂本(現・台東区北西部)や入谷(いりや)あたりからはもちろん、場所によっては浅草、吉原方面からも見え、通行人のよい目印になっていたらしい。明治になってからも、樋口一葉の『琴の音(ね)』(1893)に登場したり、正岡子規が「薄緑 お行の松は霞みけり」(1894)と詠むなど、「東京名物」のひとつだったのだ。
しかし樹齢350年ほどだったという松の木は昭和3(1928)年の夏に枯れてしまった。原因は、明治維新前後から、木の勢いそのものが衰え始めていたところに、大正14(1925)年3月の日暮里の大火でその衰えが加速した。更に木の下を流れる音無川の川床の変化、また、川の上流の田端(たばた)・日暮里方面に多くの工場が立ち始め、工場排水が川に流れ出るようになったことが、木の根に影響を与えたと考えられている。枯れた2年後に木は4メートルを残して伐採された。現在では、根株を残した状態で、丁寧に祀られている。
戦火によって消滅した西蔵院境外仏堂不動堂
第2次世界大戦中の空襲で、不動堂そのものが消失してしまった。戦後、仮の堂が建立されていたものの、終戦の混乱から日本国内が立ち直るまで、荒れるに任せた状態だった。そこで地元有志がお行の松の復興を願い、2代目が昭和31(1956)年に植えられた。そこで古木の慰霊祭と新樹の生育を祈る式典が催された。しかし2代目も9年ぐらいで枯れてしまった。3代目が昭和51(1976)年に植えられ、今現在も枯れることなく生育しているが、「盆栽仕様」のため、かつてのお行の松のイメージとはかけ離れたものになっている。そこで平成30(2018)年4月、4代目の松が植えられ、初代のように勢いよく背丈と枝を伸ばしている。
「お行の松」が祀られている台東区根岸という土地について
もともと根岸一帯は、音無川の清流と上野の山(台地)の間にあり、江戸時代には「呉竹(くれたけ)の根岸の里」と言われた閑静なところだった。そのため、大店(おおだな)の寮や別荘、姫路藩主の弟で画家として知られる酒井抱一(ほういつ)などの文人墨客(ぶんじんぼっかく)の隠棲の場所だったという。『江戸名所図会』にも、「花になく鶯、水にすむ蛙も、ともにこの地に産する者、其声ひとふしありて世に賞愛せられはべり」と、その「幽趣」ぶりが記されていた。明治になってからも、その風は変わらずに続いていた。落語の『笠碁(かさご)』では、囲碁仲間の一方の者が、昨日は根岸のご隠居さんに誘われて碁を打って、帰りが遅くなったと相手に詫びる一幕がある。
「松」という木の謂れ
そもそも植物の松には、神の来臨を「待つ」木という語源説がある。また、大きく伸びた枝ぶり、太く張った根、そして常緑の葉、風を受けた際の清澄な音などから、古くから節操の高さ、そして長寿の象徴と考えられてきた。そうしたことから、修験道系の諸霊山では、神の宿り木として柱松(はしらまつ)を立てて、山伏による五穀豊穣の予祝行事が行われてきた。根岸のシンボルだった「お行の松」にも、松が持つ霊性が人々に信じられてきたからこそ、シンボルたり得たのかもしれない。
現在進行形で力強く育っている四代目「お行の松」
4代目の「お行の松」は今、力強く根を張り、緑に彩られた枝を天に向かって伸ばしている。それと同時に、初代の枯れた松は捨て去られず、今なお地域の人々に大切にされている。それは、とてもありがたいことである。何故なら、今現在の根岸は、現代的な一戸建て住宅、コンビニエンスストア、マンション、鉄筋ビルが立ち並ぶごく「普通の町」だが、初代の松、3代目、4代目の松を通して、一瞬だけ我々は、「ご隠居さん」が静かに住まう「根岸の里」に触れることができるからだ。地域の人々が「根岸の松」のみならず、失われてしまった「根岸の里」、「江戸情緒」を愛していること、そしてその思いが共有できる地域のつながりが存在しているからこそ、初代の松が残されている。我々は「今の我々がいる場所」、そしてその「シンボル」を愛し、たとえそれが枯れたり壊れたりしたとしても、後世に残す「気持ち」を持ち得るのであろうか。
参考文献
■『江戸・東京 歴史の散歩道〈1〉中央区・台東区・墨田区・江東区 (江戸・東京文庫―江戸の名残と情緒の探訪)』1999年 街と暮らし社(編・刊)
■長野覺「松」大島建彦・薗田稔・圭室文雄・山本節・編『日本の神仏の事典』2001年(1177頁)大修館書店
■東京都歴史教育研究会・編『東京都の歴史散歩 上 下町』2005年 山川出版社
■台東区役所総務部広報課・編『新版 史跡をたずねて 下谷・浅草』2006年 東京都台東区・刊
■栗田彰『落語地誌 江戸東京<落語場所>集成』2010年 青蛙坊