日本では死とは厭うべきもの、穢れているものであった。特に遺体は「死穢」と呼ばれ、あらゆる穢れの中でも最も忌み嫌われ、同じ空間にいることすら遠ざけられた。これは迷信でもなんでもない。むしろ現代においても一層顕著であると思われる。現代社会は死を徹底的に遠ざける傾向がある。
東日本大震災の映像では当然映っているはずの遺体の姿を見ることはできない。死者を見せ物にするのは忍びないという思いも大きいだろうと思うが、それ以上に遺体を醜悪なもの、見るに耐えないもの、見たくないものという感情もあるのではないか。しかしそのように死を隠蔽することは果たして正しいことなのだろうか。
「死」を知らない少年
1997年、神戸連続児童殺傷事件を起こした当時14歳の少年は、殺傷の動機について「『死とは何か』をどうしても知りたくなった、人間はどうやったら死ぬのか、死んでいく様子はどうなのか、といったことを妄想するようになった」などと答えている(文藝春秋 1998年 3月特別号)。
この供述について、映画「おくりびと」の原作「納棺夫日記」の作者・青木新門(注)は、大人社会が死を隠蔽し、死の現場を少年たちに見せることもせず、死について語ることもしないことに原因があると指摘している。
筆者も遺体と向き合うことは大切なことだと考えている。そして死とは遺体に直接相対し「五感」を通じて学ぶものである。ネットや書物では学ぶことはできない。では死を「五感」で学ぶとはどういうことか。
注:映画「おくりびと」(滝田洋二監督・本木雅弘主演)は、青木新門「納棺夫日記」を原作として製作されたが、青木はシナリオを見て自分の本意が反映されていないとし、原作のクレジットから外すように要請した。
見る
青木新門は死の瞬間に「死」を見ることができると説く。青木は死後硬直について説明した後、次のように述べている。
「人はどんな死に方をしても、死の瞬間は柔和な顔をしている。安らかな美しい顔をしている。それから硬直が始まるのである。大事なのは、息を引き取る瞬間から硬直するまでの間に立ち会うことなのである。臨終の現場で、五感で死を受け止めることなのである」(青木新門「それからの納棺夫日記」)
こうしたことから青木は「死の実相は死の瞬間にある」と確信するに至った。
確かに死体はあっても「死」そのものはないといえる。また自分の死を知ることはない以上「死」とは他者の死である。死なるものを垣間見ることができるとすれば、まさにその他者が死ぬ瞬間である。
「死」はやってきた瞬間に「死後」となる。他者の「死」も、死ぬその瞬間と、死体となった死後の間の刹那に顕れる。それこそが「死」そのものであり、死の実相であると筆者は青木の論を解釈する。
「死」を目の当たりにし、「死」と向き合えば遺体は厭うものでないと青木は言う。青木によると、死んだ直後の顔は、多くは半眼で仏像そっくりの顔をしているという。これが事実なら、仏像のいわゆるアルカイック・スマイルは「死の実相」を表現したものかもしれない。我々が仏像の「死の実相」を見て心が洗われるのはそれが厭うものではなく、尊いものであると心のどこかで知っているからではないだろうか。
触れる
触覚は五感の中でも原始的、根源的なものである。子供が親の愛を感じるのは、抱きしめられぬくもりを感じた時である。それは言葉を知らない乳児の段階から始まっているとされる。
視覚・聴覚を失ったヘレン・ケラー(1880~1968)が外の世界とつながることができたのは、家庭教師アン・サリヴァン(1866~1936)が導いた水の冷たさと、掌に書かれた「water」の文字であった。
筆者は幼少期、深夜に祖母が亡くなった際、母に起こされ、アルコールを浸したガーゼで祖母の顔を拭いたことがある。そして青木氏の言うように、寝ているかのような祖母の顔は決して醜悪なものではなく、むしろ子供心に愛しいものを感じたことを思い出す。まだ残る祖母のぬくもりがそう感じさせたのかもしれないと今でも思う。
語る、聞く
聴覚は最後に残る感覚だという。医学的な根拠は不明だが、臨死体験者には自分を呼ぶ声が聞こえたという人が多い。その際は家族が耳元でその人の名を叫んでいたという。これが事実なら臨終の際に最後の餞になるのは言葉だ。死後の次のステージがあるならそれは何よりの餞別となるだろうし、そのような世界がないとしても、家族の声に包まれて幸せな気持ちで眠ることができたはずである。親の死に目に会えないことの悲しさは、最後の「会話」ができないことだろう。
父が臨終を向かえんとする際、筆者が姉とともに語りかけると、意識が混濁していたはずの父が笑っていた。父の意識に去来するものは計り知れないが、家族の声を聞くことで良い臨終を迎えたのだと信じている。
遺体と向き合い死を学ぶ
RPG(ロールプレイングゲーム)のように、人間は死んでも生き返ると思っている子供がいるという話が、一時期メディアに流れたことがある。これを荒唐無稽と一蹴することはできない。神戸の少年を生んだのは様々な要因があるにせよ、大人社会による「死の隠蔽」の影響は確実に大きい。死の隠蔽は死を軽んじることにつながるからだ。まず、大人が遺体と向き合い死を学ぶことを実践し、次の世代に伝えなければならない。
参考文献
青木新門「納棺夫日記」(1996)文春文庫
青木新門「それからの納棺夫日記」(2014)法蔵館
青木新門・山折哲雄 他「人は死ぬとき何を思うのか」 (2014)PHP研究所
文藝春秋(1998年)3月特別号