江戸時代中期の明和2から天保11年まで、毎年江戸で刊行されていた川柳集の『誹風柳多留(はいふうやなぎたる)』に、「あづさ弓(ゆみ)下女(げじょ)の泪(なみだ)は土間(どま)へ落(おつ)」というものがある。
死者の霊が巫女に乗り移って、様々なことを口走る。純朴な田舎娘の下女は、土間の片隅でそれを聞いて、しきりにもらい泣きをしている状況を詠んだものだ。当時の世相を映す川柳に詠まれているということは、江戸市中において、巫女が梓弓(あずさゆみ)の弦を鳴らしながら神降ろしをして、何らかのメッセージを語り、そしてそれを聞く人がいたというのは、珍しいことではなかったのだろう。
1839年に著された幽顕問答鈔に登場する幽霊や霊魂
しかし「霊」の現れ方、そして「霊」そのものの性格、そしてそれを受け止めた周囲の人々の様子などは、その当時の「時代性」を如実に物語るものでもある。
筑前・志摩郡久家村(現・福岡県糸島市志摩久家)の老松(おいまつ)神社の神官でありつつも、江戸の国学者・平田篤胤(あつたね、1776〜1843)に入門し、その思想の筑前における普及の礎を築いた宮崎大門(おおかど、1805〜1861)が著した『幽顕問答鈔(ゆうけんもんどうしょう)』(1839年)という奇書がある。
生者にのりうつった霊が登場
天保10(1839)年7月4日のことだった。北部九州における大廻船基地のひとつであった志摩郡岐志浦(きしうら、現・福岡県糸島市志摩岐志)において、廻船業・酒造業を手広く営んでいた岡崎家の長男市次郎が、墓参りの帰りに突如発熱し、うわごとを発するようになったのだ。
高名な医師の診断によると「瘧病(ぎゃくびょう、マラリアのこと)」とのことで、治療に当たるも、一向に治る様子がない。神家、仏家、修験者を招き、あらゆる修法を試みても、市次郎は弱っていく一方である。
8月23日になって、神官の大門が招かれ、悪霊退散のお祓いをすることになった。なかなか退散しない「悪霊」に対して大門は、「鳴弦蟇目(めいげんひきめ)」の術と言われる、弓弦(ゆづる)を鳴らし、矢を射ることで妖魔を調伏する修法を試みることにした。大門は「この法は妖魔のみならず、市次郎の命も消え去る可能性がある。自分は人を殺したくはない。何故このようなことになったのか」と霊に迫った。すると霊は、大門の必死の態度に心を動かされ、語り始めたのだ。
弔ってほしくてのりうつったと語った霊
霊が訴えていたのは、自分は22歳のとき、7月4日に岐志で切腹して死んだ加賀国(現・石川県)の武士である。そんな自分を弔って欲しいということだった。
自分の家はもともと、殿様から刀を三振り拝領するほどの由緒ある家柄だったが、鎌倉時代の1200年前後に、加賀国で騒乱が起こった。それに巻き込まれた父親が濡れ衣を着せられ、殿の怒りを受けてしまい、国を追放されることになった。父親は自分に、三振りの刀のうちの一振りを伝家の宝刀として家に伝えよと言い残し、家を出て行った。
自分は母の制止を振り切り、父から譲り受けた一振りの太刀と、金貨11枚を持って、父を探した。6年後、芸州(現・広島県)のヌバタ(沼田、現・広島市西区、安佐南区、安佐北区か)で父を見つけ出すことができた。
しかし父は、母の命、父の命に背いたと怒り、自分の目を盗んで、深夜にまた船出してしまった。3ヶ月後、父と豊前国企救郡(ぶぜんこくきくぐん、現・福岡県北九州市小倉北区・南区)で再会した。しかし父は自分に何も言わず、また肥前の唐津(現・佐賀県唐津市)に向かって船出して行った。自分は再び父を追ったが、心身共に疲れ果ててしまい、無念のうちに岐志で切腹した。
弔うことを約束すると、霊は二度と人に迷惑をかけないと誓った
時を経て、自分の遺骸の上に家が建てられてしまった。霊は何百年にも渡って、何とか自分の存在を知らしめて、石碑を建ててもらいたいと願い続けていたのだという。そして、遺骸の上の家を建てたのが、岡崎家だったのだ。霊は、もう二度とこのような恥辱を受けたくない。もしも墓を建ててくれるならば、今夕にも退散すると約束した。
大門は霊に向かって、姓名と主君の家を尋ねたが、「国を逃れた武士は名乗らぬのが法である」と言い、断固として答えようとしない。姓名のない石塔を建てることは、神道に外れると大門が突っぱねると、霊は「泉熊太郎」とだけ、名乗った。そして見事な手で、自らその名をしたためた。大門はそれを見て、御剣加持をもう一度行うこと、石塔をつくり、忌日にはお祀りし、諡(おくりな)を授けることを霊に約束し、証文を書くように言った。すると霊は、二度と人を悩ますようなことはしないと証文を書いた。
しかも御剣加持の際に熊太郎の霊は、大門の神刀に強く惹かれていた。聞くとそれは、奇しくも熊太郎の父が主君から賜っていた、三振りの刀のうちの一振りだったのだ。心穏やかになった熊太郎の霊に大門は、「高峰大神」の諡を与えた。それは問答の中で、霊が英彦山(ひこさん)などの清浄な高山に心を深く寄せていたことにちなんでいる。霊は居住まいを正し、「尊い諡を賜って神霊となったからには、自分の死骸があったところでは居心地が悪い。狭い土地であっても、清らかな土地を選んで、石塔を建てて欲しい」と頼んだ。大門は、霊の願いを引き受けた。霊は離れ、市次郎はすやすやと眠りについた…
今も残る、霊が実際に弔われた祠
天保11(1840)年7月4日、熊太郎のための石碑が、花掛神社の脇の小さな丘に建てられた。正面の神号は大門が書き、その上に市次郎が見た紋所を彫った。側面には熊太郎が書いた「七月四日」の文字。台座に刻まれた石碑制作の年号などは、市次郎の主治医で、大門と共に熊太郎の霊と話した医師・吉富養貞の筆によるものだった。
また、霊の約束通り、一族に吉事が訪れた。数年後、市次郎の父・伝四郎は土地の大庄屋を任じられ、市次郎もそれを補佐することになった。更に時を経て、市次郎は5代目岡崎伝四郎を襲名し、大庄屋を継ぐことになったという。
現在もなお、泉熊太郎の神霊「高峰大神」を祀った高峰社は朽ち果てることなく、岐志漁港からほど近い花掛神社そばの小さな丘に鎮座している。
霊との対話を記した宮崎大門
霊との対話を詳細に記した宮崎大門は当初、国学者・本居宣長(もとおりのりなが、1703〜1801)の跡を継いだ紀州の本居大平(おおひら、1756〜1833)の門下に入り、『道の玉はぶき』(1827年)を著した。
その中で、「漢意仏法が世間に流行し、神の道を知る人もなかったが、この80年この方、古学の大人たちが2人、3人と出て、皇祖の神の御代に立ち帰る時制となった」として、本居宣長の教えを重んじ、儒教や仏教、儒家神道系の垂加(すいか)神道、仏教と習合した両部(りょうぶ)神道、そして平田篤胤を非難攻撃する立場を取っていた。
しかし天保6(1835)年に大門は自ら江戸に赴き、篤胤の門下となったという。儒教的思想を積極的に取り入れ、江戸庶民の生活の理論構築に大いに役立ったとされる平田国学がどのように大門を「変えた」のか、今となっては知る由もない。しかし、平田国学に深く影響され、傾倒した大門は著書『幽顕問答鈔』が完成した折、篤胤の後を継いだ平田鉄胤(かねたね、1799〜1880)がいる江戸まで届けさせたという。
その当時、日本はペリー来航から幕末へと激動の時代へと突入していった
大門が国学を筑前の地に広めようとしていた時期は、嘉永6(1853)年、ペリーの黒船来航に始まる「幕末」、すなわち日本という国の一大転換期に向かいつつある時だった。19世紀初頭になると、日本は「内向き」に「天下泰平」を謳歌することが叶わなくなってきた。それは文化元(1804)年のロシア使節レザノフの長崎来航、同5(1809)年のフェートン号事件など、日本近海に、通商を許しているオランダ以外の欧米からの船が、頻繁に現れるようになったからである。
業を煮やした幕府は文政8(1825)年に、異国船打払令を発した。しかし天保11(1840)年に勃発したアヘン戦争において、清国がイギリスに敗れたことが伝えられると、国内にますます不安な空気が広がっていった。同13(1842)年に幕府は、打払令を薪水(しんすい)給与令に改め、外国との衝突を避ける方針を取りつつ、海岸防衛体制を整える方針へと転換した。そして弘化元(1844)年には、3月にフランス船が琉球を訪れ、開国を求めた。そして同年7月には、日本の開国・通商を勧告するオランダ国王の親書を携えた特使が長崎に来航した。それからしばらくして、日本は「幕末」に突入するのである。
霊として現れた「泉熊太郎」
宮崎大門の前に現れた「泉熊太郎」は、「忠」「孝」を重視した江戸時代の武士以上に武士らしい人物だった。父を探して加賀から、遠路はるばる筑前の片隅にまで流れてきた。父を諦め、旅路の途中のどこかで新しい暮らしを送ることはせず、絶望の中、自ら果てた。また、手厚い祭祀を約束する大門に対してすら、「義理」を重んじ、親が仕えた主君の名前を絶対に明かさなかった。大門から受けた恩に報い、市次郎を苦しめたことを心から詫び、その後の繁栄を約束したりもした。
「泉熊太郎」と語り合った「宮崎大門」
一方の熊太郎と語った宮崎大門は、『幽顕問答鈔』を「幽冥の理を心得た真人から、人の知恵では知り難い幽境について聞き得たことを伝える」ために記したという。それは、外国からの脅威に晒され、なおかつ、本居宣長が重んじた「古意」、すなわち、日本古来の「神道」を含む「日本らしさ」が完全に失われ、時の流れの中で、中国や朝鮮半島由来の「漢意」、天竺からの「仏意」に浸潤されてしまっている。
だからこそ逆に、「古(いにしへ)」に立ち返らねばならないという強い思潮が生み出され、それが武士階級から町人の間にまで受容され、広がっていたのだ。そのような「時代」だったからこそ、失われた「やまとごころ」を持った泉熊太郎の「霊」が、当時の岐志浦、そして大門の前に現れたのだ。それは、永遠に終わるはずがないように思われた「江戸」という大きな時代が終わりつつある前に見せた、最後の抵抗のひとつだったのかもしれない。
それゆえ、霊魂が現れる意図、そしてそこで発するメッセージにもまた、時代の空気が濃厚に反映されていると言える。後世の人々がその話を聞き知ったとき、自分が既に知っている当時の時代背景をその「霊魂」に付与させながら、頭の中でその世界を更に広げて、未来の人々に継承していくのではないだろうか。
参考文献
■森政太郎(著・刊)『筑前名家人物志』1907年
■宮崎大門 宇佐美景堂(編)『筑前国祠官 宮崎大門聞書 幽顕問答鈔 全』1839/1970年 霊相道実行会
■近藤千雄『 古武士霊は語る―実録・幽顕問答より 』1988/2007年 潮文社
■由比章祐「霊魂と対話した男 宮崎大門の幽顕問答」福岡地方史研究会(編)『福岡歴史探検 (1)』1991年(236−237頁)海鳥社
■川添昭二「総説」財団法人西日本文化協会(編)『福岡県史 通史編 福岡藩文化(上)』 1993年 (3−217頁)福岡県(刊)
■Kondo, K. (1993) A Samurai Speaks. London: Regency Press.
■川添昭二・武末純一・岡藤良敬・西岡正浩・梶原良則・折田悦郎(編)『県史40 福岡県の歴史』1997/2010年 山川出版社
■伊藤篤『福岡の怨霊伝説』1997年 海鳥社
■たばこと塩の博物館(編・刊)『企画展 川柳と浮世絵で楽しむ江戸散歩』2006年
■福岡県高等学校歴史研究会(編)『歴史散歩40 福岡県の歴史』2008年 山川出版社