「東京の空襲」といえば、戦争末期の1945(昭和20)年3月10日深夜0時を過ぎたところで起こった、主に現在の江東区・墨田区・台東区を中心とした「下町大空襲」が有名だ。しかし、東京の空襲はそれだけではなかった。主に夜間に行われた、同年4月13〜14日の東京西北部、4月15〜16日の東京南部から神奈川県川崎市、5月24日の東京西南部の空襲。正午過ぎと夜の10時半前後になされた、5月25〜26日の、都心から西部にかけてのものもある。これら4月13〜14日、4月15〜16日、5月24日は「城南大空襲」、更に5月25〜26日も含めて、「山手大空襲」とも呼ばれる空襲があったのだ。
城南大空襲の被害規模や範囲は?
「城南大空襲」においては、旧・荏原(えばら)区(現・品川区荏原、小山(こやま)、豊町(ゆたかちょう)、戸越、平塚)の被害が甚大だった。区全体の70%が被災した。総務省の調査によると、旧・品川区(現・品川区南品川、北品川、西品川、東品川、広町(ひろまち)、東大井、西大井、大井、南大井、二葉、大崎、東五反田、西五反田)では重傷者573人、全焼家屋9540戸、罹災者34459人だったのに対し、旧・荏原区では重傷者1712人、全焼家屋15000戸、罹災者60000人だった。旧・品川区近辺で比較的被害が少なかったのは、品川湾岸(現・大田区平和島)に捕虜収容所があったことが配慮され、爆撃がなされなかったためだと言われている。
荏原とはどんな場所だったのか。
荏原地区は江戸期までは農村部だった。だが地区内に中原街道、鎌倉街道が通っているため、中世以降、品川港から荷揚げされた京大坂(現・京都、大阪)の文物を鎌倉に輸送した。逆に、土地で収穫された農作物を、江戸市中へと輸送したルートだったことから、一般的に「平和」「静か」、それと同時に「閉鎖的」「ムラ社会」などといったイメージが持たれがちな「農村部」の割に、人の流出入や往来が激しい「場所」だった。更に明治期に国道一号(品川区西五反田〜神奈川県横浜市神奈川区までは「第二京浜」、「二国(にこく)」とも呼ばれる)が整備されてからは、品川地区で興隆した重工業を下支えする、家内制手工業を主とする機械・電気部品を製作する零細町工場(まちこうば)と、19世紀末のイギリスやアメリカで「規範」とされた「豊かな自然に恵まれた」郊外都市である「田園都市(Garden City)」の概念を取り入れ、渋沢栄一(1840〜1931)によって創設された田園都市株式会社を母体とする東京急行電鉄(通称・東急線)の目蒲(めかま)線(現・目黒線)、田園都市線(現・大井町線)、池上(いけがみ)線が開通し、それらの沿線に開発された新興住宅地や商店街が混在する「場所」となった。だが当時空襲で「狙われた」のは、皮肉にも、荏原区内に多く存在した、一見すると普通の民家にしか見えない小さな「工場(こうば)」において、軍事関連の爆弾や部品類がつくられているという懸念が連合軍側にあったためである。その結果、軍事施設ではない一般家屋や学校、神社仏閣などもまとめて一斉に爆撃されてしまう羽目となった。しかも5月8日には、ナチス・ドイツが降伏してしまった。更に11日になると、ミクロネシアの米軍マリアナ基地に配備されていたおよそ3000機の爆撃機・B29は沖縄作戦の任を解かれ、日本本土爆撃に専念することになった。それゆえ連合国側が、硫黄島基地からのP51戦闘機や空母からの艦上機と合わせて、日本の首都・東京を含む大都市圏の空襲による、日本本土制圧に戦力を注ぎ込む結果となってしまったのである。
城南空襲の被害にあった方々の手記が今も残っている
残念なことに今日の荏原地区には、広島の「原爆ドーム」のように、「当時の生々しい状況」を物語る建物類が全く残っていない。当時の「リアル」を視覚的に知ることができるとしたら、例えば、元・警察官で、「東京大空襲」を600枚以上、愛用のライカで撮影し続けた石川光陽(こうよう、1904〜1989)が残した記録写真を見るしかない。しかも、かつて「ここ」で、大規模な「空襲」がなされ、多くの人々が亡くなったことを知り、なおかつ次世代に語り継いでいける人々は高齢化のため、年々少なくなっている状況だ。
とはいえ、財団法人東京空襲を記録する会による、1973(昭和48)年刊『都民の空襲体験記録集 東京大空襲・戦災誌』には、多くの一般の人々による手記が掲載されている。新聞や雑誌記者、或いは小説家、学者などの「プロ」の手によらない「ナマの声」は、逆に我々の心深く響くものがある。
当時12歳だった青木かほるさんの手記
例えば、荏原区豊町に住んでいた、当時12歳で女学校1年生だった青木かほるさんの手記では、5月24日の午前1時36分から2時間、B29、250機(米軍側資料によると525機とも言われている)による「波状的な絨毯爆撃(軍事関連施設ではなく、住宅地や商業地を爆撃することで、敵側の戦意や意気の喪失を狙うもの)」のあらましは、「遺体を焼く紫色の煙」と題され、以下のように記されている。
青木さんは母親と兄弟が田舎に疎開していたため、父親とふたり暮らしだった。「いつものよう」に空襲警報が鳴ったため、父親は地元の警防団の詰所へと急いだ。残された青木さんはひとり、防空壕の中に入っていた。
真暗(原文ママ)な壕の中に光がさし込んだので、びっくりして外に出た。外には照明弾が落とされ、青白い光がこうこうと輝き、B29が腹の底にひびくようなうなりをとどろかせ…(略)…異様な雰囲気に包まれていた…(略)…続いてヒューン、バリッバリッバリッと焼夷弾が2、3軒隣の家に落ちてきた…(略)…ごうごうと燃えさかる炎のうねり。見なれた家々は昨日までのなつかしい家並みではなかった。街は狂い、悪魔と化したかのごとく、ぐれん(原文ママ)の炎は乱れ、もうもうと立ちのぼる黒煙は逆巻き、焼けただれて真赤(原文ママ)になった電線が垂れ下がり、焼けトタンの板が熱風に舞い、逃げまどう人びとを襲う…やがて夜は明け、燃えるだけ燃え尽し(原文ママ)、廃墟と化し、余燼いまだくすぶる街をとぼとぼと重い足を引きずって、我が家の焼跡(原文ママ)にたどりついた。-なんにもない!これが昨日までの我が家の跡か。ある物は焼けトタンと瓦礫の山。たった一人焼跡に立ってぼう然としていた…(略)…道端に焼死体がころがっていた。その一体は飢え犬が片股を食いちぎっていったものらしく、真黒(原文ママ)に焼けただれた遺体のそこだけが赤いザクロのように肉が割れてはみ出していた。近所の人びとも次第に帰ってきた。が(原文ママ)どうしてもみえない顔もあった。
そして数日は、さがし出した肉親の遺体を焼く紫の炎が青い五月の空に条々と立ちのぼっていくのが目にしみた。
実は下町空襲よりも投下された焼夷弾の数は多かった
この時、旧・品川、荏原、旧・大森、目黒、港区に投下された焼夷弾の量は3645.7トン、1平方マイル当たり225〜250トン。その総量は、3月10日の「下町大空襲」の2倍にも及んでいたという。しかし不幸中の幸いだったのは、死者数は旧・品川区では死者68名、重傷者573名、荏原区は死者184人、重傷者1712人にとどまったことだ。それは、わずか2時間ほどの爆撃で、10万人以上が亡くなったとされる3月10日の「下町大空襲」では、爆撃後、日頃隣組のバケツリレーによる軍事教練を真面目にいそしんでいた住民たちは、早速、発生した火災の消化活動に取り掛かった。しかしバケツの水程度では、鎮火は不可能だった。そして、迫り来る火の手に巻き込まれてしまった多くの人々が、亡くなってしまったのだ。この不幸な教訓を生かし、荏原区の住民たちは、いち早く逃げることに徹したため、死者数が数十万人に及ぶことがなかったという。
このような城南大空襲を含む東京大空襲の資料の大半は、2002(平成14)年からは、『東京大空襲・戦災資料センター』にまとめて保存されている。また、日本全土の空襲に関しては、アメリカ人のDavid Fedman、Cary Karacas、Bred Fisk、辻絵里らによる『Japan Air Raids.org 日本空襲デジタルアーカイブ』など、「私的」ながらも精査され、「日本語」のみならず、「英語」で記述されているものもある。
「城南空襲を語り継ぐ会」で現在進行系で語り継がれている
また、例えば品川区内では「城南空襲を語り継ぐ会」によって、毎年5月下旬に、「語り部」の語りや焼夷弾・防空頭巾、そして罹災当時は中学1年生で、現在の西中延(にしなかのぶ)に住んでいた小島義一さんが描いた絵などを展示する、「平和を考えるつどい」が行われている。小島さんはあちこちで上がる火の手、そして雨のように降り注ぐ焼夷弾を避けながら、4歳の弟、祖母とともに逃げ延びることができた。職業画家ではなかったものの、日本画の修行をした経験があった小島さんは、1999(平成11)年頃から、当時のことを描こう、平和への祈りを込めてと、辛い気持ちを奮い立たせ、「城南大空襲」をテーマに、絵を描いているという。こうした市民ひとりひとりによる、追悼のための様々な取り組みは、東京都内のあちこちでなされていることでもある。
城南大空襲を含む東京大空襲のみならず、第二次世界大戦当時の悲惨さを、毎年8月15日の「終戦記念日」における慰霊行事や、昔の白黒映像などをテレビで目にすることが、ある意味我々の「夏の風物詩」になっている。そしてすぐ、日々の忙しさの中で忘れ去ってしまう。しかし、先に挙げた「城南大空襲を語り継ぐ会」の人々などをはじめとする、一般の人々の熱意の一端に触れることで、我々は「その場限り」、「型通り」の「慰霊」や、「二度と戦争を起こしてはならない」といった「誓い」を済ませた後、そのまま「過去」を自分の意識から流し去ってしまうことを戒め、目を覚まさせてくれるのである。
慰霊祭や終戦記念日などはいわば「祝祭」
日本の「終戦記念日」「慰霊祭」などとは事情が若干異なるかもしれないが、世界中の国々に建立されている「戦争記念碑」「革命記念碑」などを巡る様々な行事は、国の最大のモニュメントであり、「祝祭」だ。世界中の多くの国々では、そのような「祝祭」を通して、過去の記憶を喚起し、記憶の共有を促し、国民として、国との絆を強めてきた。そういった意味では、国を挙げての「祝祭」やモニュメントは、国民を一致団結させる「器」「メディア」とも言える。
語り継ぐ目的は慰霊や平和の希求だけではない
それゆえ、毎年品川区で行われる「城南大空襲」に関する諸行事の意義とは、「後世に語り継ぐ」、そして「慰霊」「恒久平和の希求」ばかりではない。「歴史」に位置づけようとする、歴史研究者を含む後世の人々の営みを明らかにすることをも含まれる。何故なら、歴史学者の大濱徹也によると、「歴史的価値」というものは自明の理としてあるのではない。その人間、歴史の研究者が明日をどのような社会、或いはどのようなものとして描きたいかというところから、生じてくるという。しかも歴史研究者の「目」は、必ずしも「真実」とは限らない。時代に規定された「目」でしかない。そのため、その時々の政治や社会状況に影響されてしまう「危うさ」もある。だからこそ、保存された「歴史的」な記録、現物などの資料を、冷静かつ客観的に「読み直す」。そして「明日」を問いただすためには、その「場」に現在住んでいる人々の足元を見つめる。更には「場」そのものが問われていると指摘している。
過去を知って今を知る。そして自らの考えや立場を明らかにすることが重要。
従って我々は、「城南大空襲」を通して、現・品川区の当該地域に住んでいる/いない、品川区を知っている/知らないを問わず、今ある「我々」のアイデンティティを「確かめる」ことが可能になるのだ。それはもちろん、その他の過去における、規模や知名度の大小を問わない「歴史的出来事」であっても、同様である。自分の足元に、全く痕跡はないものの、空襲で焼け落ちた家、多くの人々、そして全ての人が有していた個人的な思い出の数々が「確かに存在していた」ことを、皮膚感覚をもって「知る」「感じる」ことこそが、結果として、犠牲になった人々の魂を慰める。そして自分自身の立ち位置を明らかにすることにもなるのである。
参考文献
■『東京大空襲・戦災誌』編集委員会(編)『都民の空襲体験記録集 東京大空襲・戦災誌 第2巻』1973年 財団法人東京空襲を記録する会
■栗木安延「疎開と戦災」品川区(編)『品川区史 通史編 下巻』1974年 品川区 (733−765頁)
■石川光陽(文・写真)森田写真事務所(編)『グラフィック・レポート 東京大空襲の全記録』1992年 岩波書店
■岩城完之「品川区はどんな街だったか 品川区の近代100年」岩城完之・飯沼惠(編)『巨大都市東京の地域と住民生活の実態分析シリーズ 1:品川区 城南工業地帯の衰退と地域社会の変容 –激変し
■「品川区・30年の軌跡』2000年 こうち書房 (13−23頁)
■東京大空襲展図録編集委員(編)『図録 「東京大空襲展」』2005年 東京大空襲六十年の会(刊)
■全国学童疎開学童連絡協議会(編)・小島義一(絵)『うちへ帰りたい! −絵で見る学童疎開』2007年 全国学童疎開学童連絡協議会
■大濱徹也『アーカイブズへの眼 −記録の管理と保存の哲学』2007年 刀水書房
■東京都歴史教育者協議会(編)『新版 東京の戦争と歴史を歩く』2008年 平和文化
■川上允『品川の記録 戦前・戦中・戦後 −語り継ぐもの』2008年 本の泉社
■「品川区における戦災の状況(東京都)」『総務省』2008年 http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_13.html
■山辺昌彦「空襲と戦禍」品川区(編)『品川区史2014 歴史と未来をつなぐまち しながわ』2014年 品川区 (46−49頁)
■寺門雄一「戦災と地域」品川区(編)『品川区史2014 歴史と未来をつなぐまち しながわ』2014年 品川区 (346−349頁)