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横浜市営地下鉄「踊場駅」にある「供養塔 踊場の石碑」について調べてみた

横浜市営地下鉄ブルーライン(1号線)に「踊場(おどりば)」という駅がある。駅を降りたところに、長後(ちょうご)街道が走っている。その傍、神奈川県横浜市戸塚区と泉区の境目、住所としては泉区中田東1−1には、「念佛/南無阿彌陀佛寒/供養」と彫られた、縦114cm、横38cm、幅25.5cmの供養塔がある。元文2年(1737年)に建てられたものだ。供養塔のそばには、招き猫が数体置かれている。その供養塔、並びに「踊場」という地名には、「踊る猫」にまつわる言い伝えが複数存在する。


踊る猫の二つの言い伝え

1つ目の話。近在の、東海道5番目の宿場町・戸塚の水本屋という醤油屋で、家の手ぬぐいが1本ずつなくなるようになった。不思議に思った主人が手ぬぐいに紐をつけて、その先を自分の手に結んで寝た。すると飼い猫のトラが手ぬぐいをくわえて逃げようとした。主人はトラの後を追ったが、捕まえられなかった。

それからしばらくして主人が夜に、踊場付近を通りかかったところ、猫どもが踊っているところに出くわした。踊りながら猫たちが何やら会話をしている。「今夜は水本のところのトラがいないぞ」「あいつ、今夜、家で熱いおじやを食わされたんで、舌を火傷したと言っていたぜ」「それで来ないんだ」「トラがいなけりゃ、調子が合わねえ」…家に戻った主人が家人に尋ねたところ、確かにトラにおじやを食わせたという。主人は手ぬぐいがなくなる謎が解けて、大喜びした。踊場で猫たちは手ぬぐいを頭にかぶり、夜ごと踊っていたのである。

2つ目の話。戸塚宿が成立した慶長9年(1604年)から、碑が建てられるまでの間に踊場周辺で、「猫じゃ、わしゃ猫じゃ、五郎兵衛の猫じゃ、わしゃ猫じゃ」と歌いながら踊り狂っている若い娘が夜毎、出没していた。また、戸塚宿では豆絞りの手ぬぐいの盗難が続いていたが、供養塔が建てられてからは、そのようなことが一切なくなったという。


「供養塔 踊り場の石碑」が出来た時期

供養塔そのものは、元文2年旧暦の11月、新暦ならば12月末〜1月頭に建立されたものだ。「寒」と石に刻まれていることからもわかるように、寒い中、近在の中田寺(ちゅうでんじ)の住職ら5人の僧侶が、戸塚元町から吉田、矢部、鳥ケ谷、戸塚宿の上、中、下町、汲沢大丸、坂下、宮ケ谷の広範囲を念仏修行して回った総仕上げに、開鑿されて程ない踊場の坂の上に供養塔を祀ったと伝えられている。だが、先に挙げた「踊る猫」の伝説が広く流布していたことから、「中田寺の和尚さんが猫の『おんりょう』を供養した時に建てた」とも言われている。

戸塚宿ができたばかりの頃の踊場近辺は、現在のように、戸塚に向かう道が整備されていなかった。また、昼間でさえ人がほとんど通らない寂しいところだった。追い剥ぎや辻斬りが出たりもしていた。供養塔がつくられたのも、そこで不本意な形で亡くなった人々の霊を慰めるためのものだったのではないか、とも伝えられている。


民俗学者の柳田國男によると

民俗学者の柳田國男(1911)によると、踊りそのものは元来、神仏を歓ばせて、人々の願い事を叶えてもらうための手段だったという。科学が発達する以前は、都であろうと農村部であろうと、天変地異・伝染病の流行・害虫の発生・日照り・長雨…など、ありとあらゆる民に降りかかる凶事は「御魂(ごりょう)」の成せる業、祟りだと考えられていた。そのため、人々の「願い事」とはもっぱら、そのような悪い魂を祭却(さいきゃく)することだった。それゆえ日本全国では、多くの儀式・儀礼がなされてきたが、「踊り」もそれらのひとつだった。その一例として、かつて日本には、「掛け踊り」という風習があった。それは、何か流行病が甲の村で発生した時、村人が一団となって、隣の乙の村に繰り出し、踊り狂う。一方の乙の村の人々も黙っていることはなく、大急ぎで踊りの輪をつくり、甲の村へなだれ込む。または更に隣の丙の村に踊りに出かけたという。これは、流行り病を甲の村にもたらした悪しき神が踊りの面白さにほだされて、そのまま乙の村中を徘徊されては困ると考えられていたためである。こうした風習があったことから、全国に渡って、村の小字(こあざ)には「舞台」や「踊場」とう地名が存在し、しかもそれが村の境や民家の外辺など、交通の要衝に当たるところだったとしたら、先に挙げた踊りの儀礼がなされた「場所」だったと推察されると述べていた。


招き猫の由来とは

また江戸期には、横浜市営地下鉄の踊場の隣の駅「立場(たてば)」駅周辺には、市が立っていた。主に5日と10日で、紅花を売っていたという。そして踊場には遊び場、または遊里(ゆうり、遊郭のこと)があった。近在の村人が農閑期などに踊り遊んだばかりではなく、「猫」とは実は旅の客をもてなすために舞を舞った遊女や、彼女らと一緒に踊った客たちのことだったのではないか、という説もある。

そして「猫」そのものも、狐や蛇などと同様に、信仰の対象だった。文筆家の池上正太によると、信仰対象としての「猫」といえば、江戸期に発生した福の神・縁起物としての招き猫が有名だが、それはもともと、猫が鼠を狩る習性にちなんだものだった。鼠の食害には、普通の農業のみならず、特に養蚕を生業とする人々が苦慮していた。それは卵を産みつけた種紙、蚕、そして繭に至るまでが、鼠の餌になったからである。だが、農作物ではなく蚕は、猫の格好の遊び道具になってしまう。猫を飼って、鼠の番をさせておくわけにはいかない。そのため、神社仏閣から「猫石」という、猫に代わるものを自宅に祀り、鼠よけにしていた。それが、現在我々が知る「招き猫」の祖型であるという。


猫の踊りにまつわる事件とは

「養蚕」といえば、現在の横浜市泉区内では、天保年間(1830〜44年)に養蚕業が始まった。そして明治17年(1887年)頃から増え始め、26〜7年にピークを迎える。大正5年(1916年)当時、踊場を擁する中田地区では84戸で収穫高は142円41銭、近在の和泉地区では146戸で収穫高は187円10銭、上飯田地区では101戸で収穫高は172円22銭、下飯田地区では48戸で収穫高は143円49銭だった。しかし4年後、生糸市場の暴落で、養蚕農家は大幅に減少した。そして第2次世界大戦当時は軍需優先の趨勢から自然消滅し、今日に至っている。こうしたことから、踊場で夜な夜な踊っていたのが「人」ではなく「猫」であったのは、養蚕業を守るために猫が民間信仰の対象だったことと、何らかの関係があるのかもしれない。

更に「猫の踊り」に関しては、真言宗の僧侶・蓮体(れんたい、1663〜1726)が『真言礦石集(しんごんこうせきしゅう)』(1681)の中で、江戸・隅田川周辺で起こった「事件」を書き記している。


怖い存在であると認識されていた猫

寛文年中(1661〜1673)のこと。隅田川のほとりに、猫をかわいがっていた男が住んでいた。ある夏の月の明るい晩、その男の妻が猫と共に蚊帳の中で寝ていると、猫がまるで呼吸を探るように、妻の鼻に前足を押し当ててくる。怪しんだ妻は寝たふりをして、猫の様子を伺うことにした。

妻が眠り込んでいると思った猫は、蚊帳を抜け出すと口でタンスを開けて手ぬぐいを引き出し、前足と後ろ足で障子を開けて、庭に出て行った。妻は障子の穴から覗いていたところ、庭で隣家の猫が5、6匹集まって、各々手ぬぐいをかぶって踊っているのが見えた。猫たちは踊っている間中、人間の言葉で話し、互いにお松、お糸、お夏などと、人間の女性の名前で呼び合っていた。

驚いた妻はそのまま夜明けを待って、男に、猫を殺すべきかどうかを話した。それをそばで聞いていた猫は、そのまま走り去った。

1週間ぐらい経った後、男は板橋に住む親戚の元を訪ねた。するとそこに、自分がかわいがっていた猫がいる。夫は猫を捕らえようとしたが、猫は再び逃げてしまった。

そしてその日の夕方、例の猫は妻の元に現れ、その喉首を噛み切って遁走した。

妻の叫び声を聞いた隣家の人々が驚いて、集まってきた。医者を呼んで手当てをしたが、妻は翌日、亡くなってしまった。猫はついに行方不明のままだった。恐らくその猫は、猫又(ねこまた、猫の妖怪のこと)だったのだろう…。

ここでは、猫はこっそりと深夜に集まっては、人間の言葉を使って踊り騒ぐ。しかしそれが人間に知られ、殺されそうになったときは、逆に人間の命を奪うべく、猛反撃することすら厭わない、「怖い」存在でもあると、当時の人々が信じていたことを証するものである。こうした俗信は江戸市中のみならず、口伝えで、東海道を通り、神奈川の戸塚方面にも広がっていたと考えられる。


地理学者の大槻恵美によると…

地理学者の大槻恵美は、日本の戦後の社会変動の元で、都市近郊のひとつの「場所」が専業農村から、通勤兼業農村に変化していった中、そこに住む人々が「場所」をどのように再編していくかについて、以下のように論じている。

都市化以前の社会では、生産の場と生活の場が重なっていたため、自らの手で「場所」を管理してきた社会を支えていた社会的人間関係がいかに重層的であったか。そしてその仕組みの元に地域社会の維持に実に多くのエネルギーが注がれていたか。つまり「場所」とは、単なる「場所」ではなく、自己の再生産の場でもあった。しかし現代においては、そのような緊密な紐帯は存在しない。とはいえ、人々が共有してきた「場所」の歴史が今日の著しい変化の中で、人々の生き方の指針のひとつとなっていることも事実である。ここで言う、人々の中で生きている過去のことを「伝統」と言い換えることもできる。伝統といえば「守る」という表現と不可分であるように、伝統には常に保守的で、変革を拒否するものだというニュアンスがついて回る。しかし、今を生きる我々にとって参考にすべき事柄は、過去に求める以外にはない。そして過去の全てが生き続けてきたわけではなく、選ばれてきたものだけが今に生き続けている。また、生産と生活の分離が進んでいくことに伴って、人と社会の関係が再編成されていく過程で、人々の社会的結合の契機として「楽しみ」、あるいは何らかのシンボルに拠ることが、生産の共同から生じた結びつきにとって替わってくる。こうしたことから伝統は逆に、外部社会からの影響が見て取れる。


最後に

諸説ある踊場の猫の伝説、そして供養塔のいわれは、伝説や猫の信仰と結びつくことによって、本来建てられた事情とは乖離してしまってはいるものの、江戸時代における東海道の宿場町・戸塚、そしてその周辺地域のありようを生き生きと物語るものである。そしてそれは現在、踊場周辺を生きる人々に、かつてほどの「威力」はないものの、自身の存在を心のどこかで支えるものとなっていることは否定できない。マスコミに大々的に取り上げられ、多くの人が訪れる「パワースポット」ではないものの、供養碑を毎日きれいに清掃し、香華を手向ける近在の人々が、今も後を絶たないからである。しかも供養碑と猫の伝説は、「地域の歴史」として、今後も継承されていくことだろう。

100年後、200年後に踊場周辺に住む人々は、どのように江戸〜明治〜大正〜昭和〜平成の「場所」のありようを見るのだろうか。我々が思いもつかない、「猫」、「踊場」にまつわる新しい「伝説」や「いわれ」を創り出しているかも知れない。


参考文献

■蓮体『真言礦石集』1681年 中河喜兵衛(刊)
■柳田國男「踊の昔と今」1911年『柳田國男全集 18』1990年 筑摩書房
■戸塚区郷土誌編纂委員会(編)『明治百年記念 戸塚区郷土誌』1968年 戸塚区観光協会
■戸塚の歴史散歩編集委員会(編)『戸塚の歴史散歩』1970年 戸塚区郷土史跡研究会
■中嶋富之助『戸塚郷土誌』1978年 大和学芸書房
■「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三(編)『角川日本地名大辞典 14 神奈川県』1984年 角川書店
■横浜市教育委員会(編・刊)『横浜市文化財調査報告書 第十八輯 泉区石造物調査報告書』1989年
■戸塚区史刊行委員会(編・刊)『戸塚区史 区政五十周年記念』1991年
■泉区小史編集委員会(編・刊)『泉区制十周年記念 いずみ いまむかし −泉区小史』1996年 
■高塚さより「横浜市泉区踊場の『猫の踊』譚」昔話伝説研究会・國學院大學伝承文学研究室(編・刊)『昔話伝説研究』第21号(59–84頁)2000年
■大槻恵美『風土に生きる 場所に生きる 地域の変容と再編成に関する地理学的研究』2010年 ナカニシヤ出版
■池上正太『Truth In Fantasy 89 猫の神話』2013年 新紀元社


ライター鳥飼かおる

参考サイト:横浜市泉区の寒念仏供養塔と猫の踊場蚕霊供養塔と区内の養蚕業

歌川国芳根付 「見立東海道五拾三次岡部 猫石の由来」踊る猫又

歌川国芳根付 「見立東海道五拾三次岡部 猫石の由来」踊る猫又

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