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天皇だったかどうかが長年議論されてきた長慶天皇と廃れた古墳の話

福岡県嘉麻(かま)市上臼井572番地に「御塚(おんづか)」古墳と呼ばれる、直径約18mの小さな古墳がある。この古墳はかつて、南北朝時代の後期、南朝の天皇・長慶(ちょうけい)天皇(1343〜1394)の御陵であると信じられていた。

天皇だったかどうかが長年議論されてきた長慶天皇と廃れた古墳の話

御塚古墳は1500年前に作られていた

御塚古墳は1500年前に作られていた

しかし御塚古墳そのものは、長慶天皇の御陵ではなく、今からおよそ1500年前につくられた、横穴式石室を備えた円墳だ。現在古墳の周りには、楠などの木々が生い茂り、石棺らしきものが地面に露出している格好だ。そして古墳の前には道路が走り、周辺地域には宅地や野球場が迫っている。しかも、もともと遠い昔に古墳そのものが誰かの手によってあばかれてしまっていて、2001〜2002年に行われた発掘調査においては、土地の有力首長を埋葬したことを証しする青銅鏡や金細工などの副葬品は全く発見されなかった。更にここは、筑豊炭田の一部を成す地域であったことから、明治期以降の石炭採掘、そして閉山後の鉱害復旧工事などによって、平地との比高はほんの1〜2mしかない。それゆえ、古墳であることを示す看板がない限り、これが古墳であるとは全く思えない状況だ。とはいえ、1897(明治30)年当時は、標高123mの琴平山(ことひらやま)の山裾に位置し、古墳の頂上まで登るには一苦労を要する急勾配だったという。幸いにも、わずかに原型をとどめていた箇所の調査によって、全長7mほどの複室両袖型の横穴式石室を備えた古墳であったこと。そして石室に用いられた岩石は、背後の琴平山から採取した玄武岩であることが判明した。また、石室を調べた際、いつ頃であるかは判明しないが、この古墳は1度きりの埋葬で閉じられたままではなく、追葬が行われていたことも明らかになった。

また御塚古墳周辺のみならず、嘉麻市周辺地域には多数の古墳が散見する。嘉麻市は飯塚市・田川市・田川郡川崎町(かわさきまち)・同・添田町(そえだまち)・嘉穂郡桂川町(かほぐんけいせんまち)に囲まれ、市の中心を遠賀川(おんががわ)が流れている。それゆえ、遠賀川の上り下りの中で、地域を治めた人々のための古墳の築造形式である「北部九州式」、すなわち遺体が安置された玄室(げんしつ)そのものは長方形で、扁平な石材を積んで壁を構成する。そしてその床と天井が平行の平天井で、玄室に通じる道は短く、閉塞は板石を用いるといった「古墳文化」が伝播したと考えられている。 

長慶天皇とはどんな人物だったのか

長慶天皇とはどんな人物だったのか

一方の長慶天皇とは、南北朝時代の混乱の中、不運のうちに亡くなったとされる天皇である。しかも、天皇に即位したか否かが長年議論されてきた、ある意味「幻の天皇」でもあった。そもそも南北朝時代とは、後醍醐天皇(1288〜1399)に背いた足利尊氏(1305〜1358)が京都に別の天皇を立て、「北朝」を称し、一方の後醍醐天皇は奈良県の吉野に朝廷を移し、「南朝」とした1336年から、南朝と北朝が統一した1392年までの時代を言う。長慶天皇は、南朝で後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇(1339〜1368)の皇子で、1368〜1383年まで天皇の座に就いていた。長慶天皇自身は、北朝との和睦交渉を晩年に行なっていたという後村上天皇とは異なり、対北朝強硬派だったと言われている。その根拠として、1385年に、高野山とゆかりが深い丹生都比売(にふつひめ)神社に長慶天皇が納めた「長慶院御願文」だ。それによると、「今度の対決が私の願った通りになったら、特に誠意をもってお礼にお参りに伺います」と記されている。しかしここで言う「相手方」が北朝の足利方のことなのか、1383年に天皇の位を譲ったものの、不仲だったとされる弟の後亀山天皇(1350?〜1424)のことなのかは、今現在わかっていない。ただ言えるのは、後亀山天皇は北朝との和睦派であったことから、長慶天皇の北朝への徹底抗戦の意思が窺える願文である。とはいえ長慶天皇自身は、皇族の中で長らくなされて来た『源氏物語』(平安時代中期成立)研究を引き継ぐ形で、1381年に注釈書の『仙源抄(せんげんしょう)』を著した。そして「文学環境」としては京都に比べると「鄙(ひな。田舎のこと)」であり、なおかつ「閉じられた空間」でもあった吉野において、宗良親王(そうら、1311〜1385)によって編纂された『新葉和歌集』の中に51首の和歌を残しているような「文人」でもあった。例えば1376年、吉野の如意輪寺(にょいりんじ)で行われた、後村上天皇の九回忌の際に、

     四(よつ)の時ここのかへりに成りにけり 昨日の夢もおどろかぬまに」

という歌を詠んでいる。ここで言う「四の時」は「四季」の意味があり、「ここのかへり」は四季が9回繰り返されたこと。後村上天皇の崩御から9年が経過したことを言っている。「四の時」はもちろんのこと、「四の時ここのかへり」と表現した歌は過去にほとんど例はない。しかし『古今和歌集』(905年頃成立)の「仮名序」部分に、

     「かゝるに、今、皇の天の下しろしめすこと、四つの時九かへりになむ成りぬる。 」

と記されている。そのことから長慶天皇は『源氏物語』や『古今和歌集』などの古典を隅々まで深く読み込み、自らの歌作に反映させていたことがわかる。 

多くの逸話が日本全国に残る長慶天皇

このように「文人」で、なおかつ「悲劇」「幻」の天皇であった長慶天皇には、多くの伝承が日本全国に伝わっている。民俗学者の柳田國男(1875〜1962)が『民間伝承論』(1930年)の中で、「昔から誰のともわからぬ王塚があると、直ちにそれを長慶天皇の御陵と決めて了ふ。長慶天皇の御陵が十を以て数える程各地に多い」と指摘しているが、福岡・嘉麻市の御塚古墳もその中のひとつであった。長慶天皇の御陵そのものは1944(昭和19)年に宮内省(現・宮内庁)によって、京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町の嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)と定められた。そのことから、「こここそが長慶天皇の御陵だ!」という「論争」は、それ以来沈静化しているが、明治時代においては、様々な土地の言い伝えを根拠に、全国各地で調査・記録、時に地域の自治体や宮内省へ上申する動きがあったという。

嘉麻市の御塚古墳は、室町〜戦国〜江戸〜明治と時が流れる中、いつしか「御塚(おんつか)」「鬼塚(おにつか)」「長慶様」と呼ばれるようになっていた。1975(昭和50)年に、朝日新聞社筑豊支局の角正年が地域の古老から聞き取った話によると、長慶天皇が都から碓井に落ち延びて来た。足利という悪侍への恨みから、この塚の上で切腹なさり、来世まで足利を呪ってやると言いながら、塚石に息を吐きかけ、塚の下の洞窟に入って行かれた。それ以来ここがそのように呼び慣わされてきたのだという。

碓井町で信じられてきた長慶天皇にまつわる言い伝え

また、1895(明治27)年に、筑前国遠賀郡島門村(現・福岡県遠賀郡遠賀町)の村人・井口彦市らが、福岡県知事・岩崎小二郎に、長慶天皇の御事蹟調査の上申書を提出した。そこで知事の命を受けた官吏・磯田正敏(生没年不明)は「御塚」「鬼塚」を調査し、『潜龍遺事』(1897年)を書き記した。そして「これは長慶天皇の御陵である」と結論づけた。磯田によると、当時の人々は、北朝と足利氏に追われた天皇は、わずかな共を連れて碓井に来て、行在所を置かれた。しかし1400年3月17日未明、「来世に到るまで、暴虐の者あるときは、再び人間に生まれ出てそれらを誅すべし。天地の神にこれを誓う」と言い残し、頭を東に向け、悲しみと怒りに身を震わせつつお隠れになった。天皇を看取った村人たちは、密かに碓井山(琴平山のことか)で火葬にした。そして涙ながらに塚を築いたが、北朝や足利をはばかり、この塚は天智天皇を祀ったものと称した。時を経て1404年8月に、後亀山天皇の第四子で、京都の十念寺(じゅうねんじ)を開基した眞阿(しんあ)上人(1374〜1440)が碓井の地を訪れた。上人を歓迎した土地の有力者・種光光祐は千手寺(せんじゅうじ)を建立し、寺内に石塔婆を建て、長慶天皇を供養したという。非業の内に亡くなったとはいえ、長慶天皇はこの地で一皇子一皇女に恵まれ、その子孫は土地の名家・河津家を継いだ。その証拠として、「長慶天皇の宸筆」とされる書が河津家に伝わっていたという。

何故このような言い伝えが碓井町で信じられ続けてきたのだろうか。

民俗学者の柳田國男によると…

柳田國男は「昔話」、「伝説」の違いを以下のように述べている。昔の人々は例えば、石の表面に凹(くぼ)みがあり、足跡のような池があると、それがそのまま「だいだら坊」という巨人が歩いた跡だと、素直に信じていた。それが「伝説」である。しかし、人知が開け、一通り地理や歴史の知識が人々の間に備わってくると、そんなことはあり得ないということになる。すると「伝説」は「伝説」ではなくなり、「昔話」になる。しかも「伝説」はそれを人々が信じることができるよう、話の内容に説得力を持たせるため、「昔名僧があって旅に出た」と聞くと、「ああそれは日蓮上人だろう」「いや、親鸞上人だろう」などと、実在の著名人や何らかの来由をもって真実めかす。逆に「昔話」の場合は、「天狗の羽うちわが人の鼻を寝ている間に天まで届くように高くした」など、「天狗」の力の凄さをますます誇張して語るのだ。

御塚古墳がある碓井周辺は、古墳時代から、遠賀川水運によって多くの文化が伝播した「場所」だった。柳田の説に即して考えれば、誰が葬られたのかが判然としない古墳があった。その由来について、たまたま南北朝時代に不遇なまま亡くなった長慶天皇の話を聞いた人々が、これは「天皇の御陵」と信じた。それを真実のものとするために、「伝説」に「長慶天皇」や「眞阿上人」という、南北朝時代の著名人の名前を冠した。或いは高位の貴族か武士が都から落ちのびてきて、自らの非業を呪って、碓井の地で死んだことがあったのかもしれない。その人物を村人たちが、「長慶天皇」であると信じ、古墳と結びつけたのかもしれない。

一方、民俗学者の折口信夫は…

また、民俗学者の折口信夫(1887〜1953)は『日本文学の発生 序説』(1924年)の中で、日本の中世・近代の物語文学における類型のひとつ、「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」について論じている。それは、尊い神や高貴な身分の人が、天上や都で犯した罪のために、地上や地方に漂泊して、辛苦の生活を経験するという話だ。その代表的な作品として折口は、『源氏物語』の、「須磨の浦に、さすらい住んで、あしこ(あそこ)の自然の荒さに苦しみ、やっと明石へ這い渡り、そこでかりそめの憩いを覚えるようになる光源氏の生活」を描いた、「須磨」「明石」の巻を指摘する。そして『源氏物語』以降、多くの人々が「あれほど優(ゆう)なる生活はない」と、源氏の生活を懐かしんだ。そして無意識のうちに「源氏の生活」の「語り」を模倣するようになっていたという。『源氏物語』ばかりではなく、『竹取物語』(平安時代初期の成立)のかぐや姫も同様である。そしてこのような話を全国各地に伝えたのは、「ほかいびと」(巡遊伶人。じゅんゆうれいじん)と言われる、神仏の信仰やそれにまつわる話芸を伝えることを生業とし、全国を経巡る人々だった。彼らは何代にも渡って、話や歌を全国津々浦々に「撒布」した。それが繰り返される中、時代を経て、その地の過去の事実として、人の心に起き直ってきた。しかもそうなるためには、土地の地名と関係を結んで出てくることが必要だったという。御塚古墳も、日本人の多くが好んだ、何らかの罪を犯した尊い人物の落飾話がいつしか、「長慶天皇」と結びついて、「御陵」と見なされるようになったのかもしれない。

とはいえ、現代を生きる我々は、古く、荒廃した古墳に対して「長慶天皇の御陵」という「伝説」を付与し、それを語り伝えていた碓井の村人たちのことを、無知蒙昧だと笑うべきではないだろう。何故なら、何もかもが「解明」された今を生きる我々ですら、ストーリー展開や人物造形において「ワンパターン」「ありがち」だと心のどこかでわかっていても、本来高貴な身分であったにもかかわらず、自らの罪か、または周囲の誰かに陥れられ、不慣れな世の中をさまよい歩くといった、苦難の運命を背負わされた主人公を描いた韓流ドラマ、ディズニーやジブリのアニメ、ロールプレイングゲームなどに深いシンパシーを寄せ、カタルシスや明日を生きる力を得ているのだから。

考古学者の森浩一は…

考古学者の森浩一は、『日本書紀』や『古事記』に描かれた、悲劇の「敗者」の立場から歴史そのものを読み直すことで、さまざまな地域の隠された歴史を掘り起こすことになるかもしれない。そしてその地域の人々に勇気を与えることができるのではないかと、「学校の教科書」「受験で問われやすい内容」「世間の一般常識」の範囲の中で語られてきた日本の古代史の読み直しを提唱している。古代史に限らず、「長慶天皇」に関しても、更なる「読み直し」を試みたなら、もしかしたら、架空の「伝説」ではなく、本当に吉野から流れ流れて福岡の碓井に落ち延びてきたのが「事実」になる可能性がある。長慶天皇にとっては、吉野で天皇としての立場を、命が尽きるまで全うできなかった恨みの心があったとしても、ほんの一瞬、都と比べれば「鄙」の碓井で、勢力争いの疲れを癒し得たかもしれない。現在の御塚古墳周辺に住む人々にとっても、身も心も疲れ果てていた長慶天皇につかの間の心の安らぎを与えた「場所」だったとして、それまで見逃していた「場所」の意味を見出し、森が言うように、勇気づけられたり、天皇が歩まされた数奇な運命に心を寄せたりして、歴史のロマンに感動することになるだろう。

最後に…

言うまでもなく、このような「伝説」は、福岡県の碓井町や「長慶天皇」に限ったことはない。大半が「真実ではない」かもしれない。だからといって、「伝説」やロマンを求める人の心を、「現実」「常識」「理性」をもって否定すべきではない。それは「伝説」やロマンが、人の心を豊かにするからだ。心が豊かでなければ、たとえ知識があり、他人が羨む富裕な暮らしをしていたとしても、人としての幸せを日々噛みしめることはできない。従って、「心が満たされない人」こそ、折口が言う「貴種流離譚」の物語、柳田が指摘する「伝説」が付与された、例えば碓井町の御塚古墳のような「場所」を実際に「目にする」「立つ」ことが求められているのではないだろうか。

参考書籍

■磯田正敬『潜龍遺事』 1897年 私家版
■嘉穂郡役所(編)『嘉穂郡誌』1924/1972年 名著出版(刊)
■折口信夫『日本文学の発生 序説』1924/2017年 角川書店(刊)
■角正年「長慶様」朝日新聞筑豊支局(編)『ふるさと筑豊 –民話と史実を探る』1981年(116-118頁) 朝日文化センター(刊)
■弥常義徳(編)『碓井町誌』1982年 福岡県嘉穂郡碓井町 町長 西好明(刊)
■嘉穂町ふるさとものがたり編集委員会(編)『嘉穂町ふるさとものがたり』1992年 嘉穂町教育委員会(刊)
■飯倉晴武「長慶天皇」青木和夫・網野善彦・大津透・佐藤進一・高木昭作・塚本学・坪井清足・橋本義彦・坂野潤治・山崎広明(編) 『日本史大事典』第4巻 1993年(971頁)平凡社(刊)


ライター

鳥飼かおる(掲載日:2018/03/08)

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