20年ほど前に叔母が亡くなくなり、しばらくして従妹から電話があった。「形見分けの服や服飾品を送るから受け取って」とのこと。色々と気にかけてくれていた叔母だったから嬉しかった。丁重にお礼を述べて電話を切った数日後、送られてきた形見の荷物の量にびっくり。本当に我が家宛の荷物かどうか疑ったほどだ。ティッシュペーパー用の超大型の段ボール箱2つとやや小さめの箱が1つ、合計3個の箱が我が家の狭いリビングをしばらく占拠することとなった。
折角の形見分けなのだから捨ててはならないと思い全て保管
おしゃれで衣装持ちの叔母だったので、さもありなんなのだが、それにしても数がハンパではなかった。コート4着、ベスト4枚、スーツ3着、ブラウスやニットのプルオーバーが20枚以上、スカート2枚。これ以上ははっきり覚えてはいないが、手袋、マフラー、ストール、新品のタイツやストッキングがいくつかあったと記憶している。ちなみに靴も2足あった。あとキラキラのスパンコールも。
箱から出して整理するのも一苦労だった。中身だけではなく、段ボール箱をつぶして束ねること自体も手間だ。そして、馬鹿正直だった私は、従妹の厚意を無にしてはいけないし、いつか着ることもあるだろうと考え、もうすでに満杯近いタンスとクローゼットに無理やり詰め込んだのだ。
形見分けの衣類等々を実際に使用してみたが・・・
ところが、伯母の形見の服を何度鏡の前で着てみても、どうにもしっくりこない。自分のライフスタイルに合わないし、似合わない。
結局、10年も悩んだ末、いただいた物のほとんどはリサイクルショップなどで処分した。割り切れる性格であれば悩まなくてもすむのかもしれないが、きっと私のようにうじうじと悩んでしまう人も多いと思う。
形見分けと遺品整理の違い
形見が形見として大事にされるためには、その品を見れば故人を思い出せるようなストーリーが何よりも重要だろう。故人がどんな時にその品をよく使っていたのかということと、形見分けされた本人もその記憶が残っていることはセットでなければならない。でなければ、形見はただの物体となってしまう。
亡くなった人の意思や面影を形見に込めることは大切だ。そのためには、数は少ないほうが効果的だろうし、大量の遺品を送られた側はその処理に悩んだり、手間をかけたりしなければならないことも多々あるということを思い知った。遺品整理の機会とばかりに、形見と称して大量の物品を親戚じゅうに送りつけたりしないほうが賢明だ。
ちなみに叔母の形見はすべて処分したわけではない。彼女が身に着けていた記憶があるストールと手袋は手元に残してある。そして、冬の寒い日にありがたく使わせてもらっている。身に着ける度に、叔母のおっとりした笑顔を思い出す。これこそが形見といえるだろう。