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【骨壷の歴史】骨壷はいつ生まれた?どんな素材があった?普及した理由は?

東京の品川区立品川歴史館に、常滑(とこなめ)焼の大甕が所蔵されている。

この大甕は品川・御殿山(ごてんやま)が切り崩される以前に、山頂南側斜面に建っていた屋敷内に長らく放置されていたものだった。1980(昭和55)年頃、地域の開発計画があり、東京都と品川区の文化財担当者がその屋敷を訪問した際に譲り受けたものだという。大甕のサイズや形状を精査した結果、1450〜1500年頃につくられたものだと判明した。


御殿山の歴史

品川の御殿山は、現在の北品川3〜4丁目に存在した小高い山のことである。「花を見捨てて旅籠屋へ騒ぎ込み」と江戸の川柳に詠まれ、葛飾北斎や歌川広重の浮世絵に描かれたほど、品川宿の遊里に程近い桜の名所として、江戸の人々に親しまれていた。

しかし幕末の1853(嘉永6)〜1854(安政元)年に御殿山は、ペリー来航に始まる、西欧諸国からの脅威に備えるためにつくられた品川台場の土盛りに利用するため、平地となってしまった。そのとき土中から、大量の板碑・五輪塔・人骨・武具などが出土した。祟りを恐れた当時の人々は、近在の法禅寺(ほうぜんじ)に、それらの遺物を納めたという。このことは御殿山が単に、宿場町に近い桜の名所だったばかりではなく、中世期には、大きな廻船が停泊していた品川湊周辺に住む人々にとっての「墓域」「聖域」としての役割を果たしていたことも物語っている。


常滑焼の歴史

常滑焼は、愛知県知多(ちた)半島の中央部、西岸の伊勢湾に面した常滑発祥の焼きものだ。瀬戸焼・越前(えちぜん)焼・信楽(しがらき)焼・丹波立杭(たんばたちくい)焼・備前(びぜん)焼などを含む日本六古窯(ろっこよう)のひとつに挙げられているが、平安時代末期からつくられ始めた常滑焼が、最古のものとされている。当初は写経を納めるための器が主流だった。

その後、鎌倉〜室町時代以降は、生活雑器の壺や甕の生産が大半を占めるようになった。1574(天正2)年、尾張国内で瀬戸焼以外の窯業を禁じた織田信長による禁窯令によって衰退するが、江戸時代になってから、再び生産が活発となった。


海上交通が発達したことで常滑焼が流通。その後様々な用途で使われるようになった常滑焼。中には骨壷にも。

何故、東国から遠く離れた知多半島でつくられた常滑焼の甕が品川・御殿山で発見されたのか。それは、12世紀半ばぐらいから日本全土において、海上交通網が発達した。そのため常滑焼は太平洋側、紀伊半島以西の瀬戸内から九州、そして東国には、当時の品川湊を拠点として、広く流通するようになったという。その結果、古い常滑焼の大甕は品川ばかりではなく、武蔵村山、府中などの内陸部、そして虎ノ門に始まり、神奈川県平塚市を終点とする中原街道沿いからも発見されている。

そのような常滑焼は、主に何に使われていたのだろうか。品川で発見された大甕は、屋敷に放置される以前には、水貯めや植木鉢として利用されていたと推察されている。そして府中・大國魂(おおくにたま)神社参堂付近から出土したものは、90427枚にも及ぶ、日本の律令期に使われていた皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)、唐〜明代の中国銭、そして朝鮮の銭が納められていた。中原街道で発見されたものは、当時江戸城に献上する最上級の酢が沿道で醸造され、「御酢(おす)街道」とも呼ばれていた土地柄ゆえに、酢をつくるのに使われていたことが明らかになっている。しかし、府中市宮町2丁目から出土した大甕からは骨粉の付着が認められ、甕棺として利用していたと想定されている。

常滑焼の大甕がこのように広く、多様に用いられていたのは、ひとえに常滑焼そのもののクオリティが高かったことの証である。しかしそれが今日で言う「骨壷」にも用いられていたのは、何故であろうか。


火葬の歴史と密接な関係性がある骨壷

8世紀初頭から、火葬の風習は全国に広がった。当時の火葬墓の多くは、土坑の中に骨壷、または骨蔵器(こつぞうき)を納めていた。そしてそれらは、古代から製造されていた赤味を帯びた土師器(はじき)や黒〜灰色の須恵器(すえき)の壺や甕の転用、木や石の櫃(ひつ。大型の箱)、銅に鍍金(メッキ)を施した金銅(こんどう)や銅でできた金属器だった。それらの中で、特に多く発見されるものは、「薬壺(やっこ)」と呼ばれる、蓋がついた須恵器の台付短頸壺(だいつきたんけいつぼ)だ。珍しいものでは、慶雲4(707)年の銘がある、奈良県宇陀(うだ)市の文禰麻呂(ふみのねまろ)の墓から出土した、ガラス製の骨蔵器を金銅製の専用容器に納めたものがある。
 
とはいえ、京都では時代を通じて火葬の風習は継承されていたが、それ以外の地方では、10世紀になって、火葬が減少した。そして再び12世紀になって、火葬が復活する。その理由は不明だが、日本各地で階層を問わず、火葬が復活し始めた時期と、堅牢で高品質な常滑焼の生産増加、そして海運による輸送網の発達し始めた時期とが重なったことが、常滑焼の大甕が「骨壷」として利用された、最大の理由と言えるだろう。


未来の人々が、この時代の骨壷を調べたら?

今日では、「何でもある」Amazonにおいてさえ売られているほど、葬儀の多様化によって、骨壷の「あるべき姿」も大きく変わっている。白いシンプルなものだったはずが、いつの間にか金色に輝くものや、ウエッジウッド風の、水色に白の浮彫が施されたものまで、我々は好みに応じて、容易に入手できる。

500年、600年後の未来の人々が、2000年代初頭の日本人の葬制・墓制を調査・研究することがあったなら、「骨壷」には、「白いものばかりではなく、色鮮やかなもの、西洋の陶器風、日本の焼き物風など、多種多彩なものが散見される」と論じることがあるかもしれない。その頃には、今の我々が考える「骨壷」そのものがなくなり、現在の我々の想像も及ばない、全く異なった形状・性質を持つものになっている可能性もある。


自分が入る、あるいは大切な誰かを入れるならどんな骨壷を選ぶ?

民俗学者の岩田重則は、「墓とはふつう埋葬が行われている場所であると認識されているが、現実には、埋葬が行われていないことも多い」と言う。例えば近世期の浄土真宗地域では、火葬した遺骨の一部を本山などに納骨した後、残りの骨を墓所ではない場所に遺棄することもあったという。現在に目を転じても、本来、土葬にせよ火葬にせよ、一旦死者を埋葬した後、そこを死者が出るたび、納骨するために繰り返し開閉することはなかった。それゆえ、今日主流である、墓石の下に骨壷を納めるカロート式の墓は、考えようによっては、「墓あばき」をしていることにもなる、とも指摘している。

ただ言えることは、中世期の常滑焼の大甕にせよ、現代風の金色の骨壷にせよ、それらに骨を納め、埋葬することを含めた一連の葬送儀礼は、亡くなった人のみならず、残された人々にとっても、実に厳粛で重要なものである。我々はもし自分が「入る」なら、または大切な誰かを「入れる」なら、果たしてどのような器を選ぶだろうか。昔のように、伝統から逸脱することが許されない時代ではなく、自由に何でも選ぶことも可能になった今だからこそ、我々は「ノリ」「ファッション」ではなく、あえて真剣に考えてみる必要があるのではないだろうか。


参考文献

ライター鳥飼かおる
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