日本のことを「大乗仏教の国」と表現することがあります。
江戸幕府が寺請制度という民衆に対する宗教統制政策を打ち出したとき、日本は公式に仏教国になりました。それから今日に至るまで、日本では自分を大乗仏教徒であると考える人の割合が一番多い状態が続いています。
日本人は日本に伝わった仏教を「大乗仏教」だと認識している例がほとんどです。
しかし、大乗仏教(大いに優れた仏教)という言い回しは大乗仏教を名乗る集団が(教義上)対立する一派を小乗仏教と呼んで蔑み、自己宣伝の材料にしたことに由来しているというだけで、要するに自画自賛の命名でしかありません。
もともと仏陀(ガウタマ・シッダールタ)という歴史上の人物が修行の末にたどり着いた思想を、自分自身で宗教だとみなしたことは一度もないのです。
この部分を詳細に解説すると幾百冊もの著作でも足りないことになりますので、以下大幅に簡略して重要な部分だけお伝えしてみます。
仏陀の生い立ち
仏陀ガウタマという人物は、当時のインドの宗教(主にバラモン教)のあまりに儀礼・作法にこだわる硬直した教義に疑問を持ち「人生というものの本質はそんなところにあるわけがないだろう」という当たり前の発想から、この問題を自分自身で解明しようと決意しました。
「本当に人生や宇宙のありかたをひとりの人間が把握するためにはどうしたらいいのか?」
これを突き止めるために、身分(領土は小さいながら軍事的に強大な国の第一王子)をかなぐり捨て、真理求道に身を投じてしまったのです。
数々の名のある思想家(当時の思想家は全て修行者だったのですが)に弟子入りを繰り返し、人間がその限られた心身機能で最大限に思考活動を行うためには瞑想(禅定)の状態に入らないとならないということを教わり、そのためには身体を滅却(無視)して知性をフルに稼働させる必要があることを知ります。
こういうアドヴァイスを即座に実行に移してみせるあたりが、彼の凡夫とは違うところだったのでしょう。
思考だけに集中・・・想像を絶する期間の断食、意識を失うまでの呼吸停止。
このような苦行を6年ほど続けた後、(伝説では)沙羅双樹の下で「なんだかこういうのも違うような気がする」という電撃的なインスピレーションを受けて、とうとう彼は大悟します。(このあたりの話については、わが国でもいろいろな脚色をつけて表現されていますね)
仏陀ガウタマが到達した思想は、単なる俗物でしかないわたしには憶測的理解すら難しいものですが、現存最古の仏教経典「スッタ・ニパータ」によれば、ガウタマは自分がたどり着いた「真理」は宗教などという抽象的なものではなくて、一種の医学として分類されるべきものだと考えていたようです。
その内容をほんの一部列挙しただけで、現代の一般的な日本人は頭がぐちゃぐちゃになるのは間違いないです。
仏陀が到達した思想は?
たとえば菩提心(信仰心)というのはガウタマの考えでは「物質」です。
骨・皮膚・血液などと同類ながら、あまりに精妙な存在の形をしているので感覚できないだけなんだそうです。
物質的基盤があるわけですから、骨肉のように意識的に増やそうと努力しない限り菩提心は少ない状態で留まったままになります。なんの努力(修行)もしていないのに信仰心がある=虚妄だと彼は断じるのです。
この調子で仏陀ガウタマは、心身ではなくて「たましい」を改善するための医学理論を展開していきました。
ガウタマは自分の思想を絶対に他人に漏らさないで死ぬつもりでした。
はい。あなたの想像どおりでしょう。
彼の理論はあまりに高度かつ難解で、だれかに伝えることは不可能だと自分で思っていたからです。
布教を考えていなかった仏陀の思想がなぜ現在まで伝わっているのでしょうか?
それなのに、なぜ現在に至るまで彼に由来する仏教というものがあるのか?
仏教の古代経典では梵天(宇宙創造神)に布教してくれと三回も頼まれたからだとか、ガウタマ自身の衆生に対する慈悲心のせいだとか、いろいろな説を記述していますが、実際のところは、仏陀の「たましいの医学」理論は末端技術だけでも有効性があったからなのではないかと思います。
これがもし、腰痛を改善するとか悪性腫瘍を消すなとどいうわかりやすい症例が対象だったら、後の世に難問を残しはしなかったでしょう。
なにしろ「たましい」を治療する医学では、最終的な治療効果は死んでからしかわからないんです。
結果がなかなか確認できないとき(歴史の常として)より簡便な治療システムを採用している医学方式のほうが勢力を拡大することになっています。
ここであなたの「直感」に問いかけてみます。
自分たちを大乗と呼び敵対勢力を小乗と呼ぶ行為は、どういう発想から出るものでしょうか?
日本は「大乗仏教の国」だから小乗仏教を信奉している連中より上等だと公言してはばからない人たちは大勢います。
これこそがとんでもない無知蒙昧な思い込みであり、いつまでも葬儀や法要で大金を稼ぎ続けている寺院や僧侶をありがたがって、唯々諾々とお布施を払っている根本的な理由に他ならないのですが・・・