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心に残る家族葬トップ > 葬儀のコラム > 縄文〜弥生時代にも存在した葬儀の習俗「再葬墓」について調べてみた

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縄文〜弥生時代にも存在した「再葬墓」という葬儀の習俗

春秋の彼岸、盆などに、我々は先祖のお墓参りに出かける。その後親戚一同集まって、ぼた餅を食べたり、お酒を飲んだりして、故人を偲ぶのが季節の風物詩とされてきた。しかし最近では、先祖代々、または夫妻とは一緒のお墓には入りたくないと、前もって自分だけのお墓を準備する人、更には木の下へ埋葬する樹木葬、海にご遺骨をまく散骨、果てはロケットで打ち上げる宇宙葬など、「墓標・墓地」の有無にこだわらない人も少しずつ増えてきている。

時代に応じて変化を遂げてきた「墓」の有り様、ご遺骨の「取扱方」だが、縄文・弥生時代の日本には「再葬」という習俗があった。


時代や地域によって多種多様なバリエーションが存在した再葬墓

それは、一旦埋葬した死者の骨を再び掘り出し、別の土坑(どこう)に埋葬し直すという。そしてそのような墓を「再葬墓」と呼ぶ。

例えば茨城県取手市の中妻(なかつま)貝塚から、縄文後期のものとされる、再葬されたおよそ100体分の人骨が発見されている。このような再葬墓は、主に愛知県〜山形県に至る、日本列島中央部で発達した。そして墓そのものは、集落や墓域の中心など、特別な場に設置されていたことが明らかになっている。考古学者の設楽博己は、人骨が再葬された目的は祖先祭祀であり、再葬墓の役割は、集落構成員結集の原点としてのモニュメントだったのではないか、と指摘している。

しかも再葬墓には、時代や地域によって、埋葬方法に様々な違いやバリエーションが存在した。「祖先崇拝」のシンボルでありながらも、墓から発見された骨の中には、「屈葬(くっそう)」と呼ばれる、脚を死後、強く折り曲げたものもあり、それは死者のよみがえりを怖れた生者によって、意図的になされたものだと解釈されている。

また、設楽は長野県内に散見する再葬墓の人骨が焼かれていたことに着目した。縄文中〜後期とされる、長野県千曲市の幅田(はばた)遺跡群から、焼かれた人骨と獣の骨、そしてそれらと伴う形で、円状などに意図的に石を配置した遺構が発見されている。


当時と今の葬儀習俗の違い

飯田市の中村中平(なかむらなかだいら)遺跡の発掘調査から推測される再葬の段取りは、以下の順番になる。

(1)死亡 (2)配石(はいせき)された場所での儀礼 (3)配石墓での土葬 (4)遺骨の掘り起こし (5)焼骨葬 (6)選骨 (7)一部の焼人骨の壺への納入、残った焼人骨の配石墓への埋納 (8)壺に入れた焼人骨を土坑へ埋納

現在の我々は大体(1)死亡 (2)葬儀 (3)火葬 (4)宗教儀礼 (5)墓所 の順番で亡くなった人を埋葬している。縄文・弥生時代の人々に比べると、とても簡略化されているように思われる。

もともと、焼かれた獣の骨を砕いて、配置した石に埋納したり、撒いたりしたと思しい儀礼は、人骨との関連よりも歴史が古いとされている。時代が下り、人骨を焼く儀礼が取り込まれたのは、狩猟生活が活発化したことと関連があるという。長野県で始まったとされる焼人骨葬は、新潟県域1例、山梨県域2例、愛知県域2例、奈良県域2例、大阪府域1例と拡大していた。それと同時に、縄文晩期には、長野県域外の、主に愛知県域で行われていたとされる、「盤状集骨葬(ばんじょうしゅうこつそう)」が長野県域に流入された。
盤上集骨葬とは、一旦土葬にした遺体を白骨化した頃合いに掘り出す。そして大腿部の骨を井桁状に組み上げ、その中に他の骨を入れて再葬したもののことである。異なる再葬墓の様式が他地域に相互的に存在するのは、人々の往来、移動範囲が広がったことを意味するものだ。再葬の際に骨を焼く、または焼かずに組み上げる習俗には、当時の人々にとって、どのような意味があったのだろうか。


葬送儀礼とは、そもそもなんだろうか

考古学者の山田康弘は、死者のために墓を造り、その後も墓参りなど、何らかの儀礼を行う、墓を「守る」こと(墓制)、また、人が死んだ際、死者と残された人々のために行われる儀礼や習俗(葬制)、そしてそれらがまたがるもの(葬墓制)について、以下のように述べている。

死者を祀る儀式や習慣、墓を造ることなど、一連の葬送儀礼は、必ずしも埋葬された人を追悼するためだけにあるのではない。ある家族共同体において、誰かの死が生じたことによる労働力の低下、様々な知識・知恵の喪失、人望などの物理的・精神的損失を補填するために、葬送儀礼をする。それによって新たな秩序を生み出す、「社会安定装置」としての機能を併せ持っているという。それは古代に限らず、現代であっても、葬送儀礼やお盆などで人が集まった際も、同族同門意識などの社会的な紐帯や相互序列の確認と継承、及び再編成・再生産が行われる。それと同時に、集まった人々の間で、様々な情報が交換されたり、死者の財産が消費・分配される。しかも、葬送儀礼を誰が執り行うかによって、亡くなった人が生前に有していた地位や権威・財産などの継承がどうなるか決定・周知される「場」にもなるのだ。


最後に…

一旦埋めた骨を再び掘り出して、焼いたり、または特定の骨を細工するなど、埋葬の方法は現代のそれとは大きく異なるものの、そうした一連の儀式、モニュメントが置かれた「場所」は、現代同様、およそ3500年前の縄文・弥生人の共同体の中での「社会安定装置」としての役割を果たしていたことは間違いない。

3500年後の地球上の「日本」に「日本人」、或いは別の「〜人」が存在しているかどうかはわからない。しかし未来の人々が、2000年代の「日本人」を研究することがあったとしたなら、旧来の方式を継承しているもの、または、今現在ではある意味実験的とも言える新しい葬送儀礼や墓所について、どのように考えるだろうか。今以上に科学技術が発達しているであろう3500年後の葬送儀礼や墓所は、現代のそれとは大きく異なったもの、場合によっては理解しがたいものであることは言うまでもない。

参考文献:民俗小辞典 死と葬送、 縄文時代の考古学 9 死と葬い 葬制、 縄文時代の葬墓制・社会・死生観


ライター鳥飼かおる

参照リンク:企画展 再葬墓と甕棺墓—弥生の墓の東西—

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